わたしのカリスマ
小学5年生のころ、祖母に連れられてなんばグランド花月に吉本新喜劇を観にいった。
幕が開くと、テレビでも見たことのある芸人さんたちが出てきた。
わぁ山田花子さんや!池乃めだかさんほんまにちいさい~
拍手しながらわくわくと見守る。
芸人さんたちは互いにボケたりツッコんだりしている。
劇はどんどん進んでいく。
あれ?おかしいな、笑うタイミングまだかな?
う~ん、ここで笑うんかな?
劇はどんどん進んでいく。
あれあれ?私まだ一回も笑ってないで。
他の客さんはどんな反応を?と左右の客席を見回すと、みんな爆笑している。
私の祖母も大口を開いて笑っている。
がーん
私だけが笑えてないやん。
しっかり見ろわたし。もっとしっかりとだ。
次のオチではきっと笑えるはずや。ああダメやった。
次はどうだ、次は…
そんなことばかり考えて、結局一回も本気で笑えないまま劇は終わってしまった。
目をギンギンにして青ざめながら吉本新喜劇を観る小学生なんているだろうか。
だれもが爆笑する日本一有名なドタバタ劇を面白いと思えないなんて私はおかしいんや…
舞台からはけるとき、めだかさんが観客に向けて振ってくれた小さな手に、私は呆然と手を振り返した。
そんな、 “関西人のDNAに刻み込まれた笑いがわからない自分”に打ちのめされた小学生の私にとって、『動物のお医者さん』は心の拠り所だった。
“マンガしか置かない本棚”のなかで恋愛マンガが8割を占めるなか、『動物のお医者さん』は私がハマった数少ないコメディマンガとして、今も本棚の一番奥に鎮座している。
ああ…今までに幾度読み返してきたことだろう。
佐々木先生の描く動物の、動物たらしめる表情の数々、ほのぼのと進む物語のなかに潜む淡々とした高度なギャグ。
ページを開けば、そこには押し付けがましくない笑いが満ちていた。
小学生時分から、子ども番組で動物が人間の言葉を話すのを冷ややかな目で見ていた私が、チョビ(ハスキー犬)のお利口さんなセリフに胸キュンし、ミケ(三毛猫)の関西弁に何度もにやついた。ヒヨちゃん(ニワトリ)の天上天下唯我独尊精神を崇拝し、ハムテルの祖母の我がままぶりに驚嘆し、漆原教授の傍若無人っぷりにときめいた。(二階堂×スナネズミも大好きだよ。)
そんな魅力的なキャラクターたちで溢れかえるなかでも、私は特に菱沼聖子というキャラクターに心奪われた。
動作も口調もとろく(菱沼さんの吹き出しだけぐにゃぐにゃ荒れている)、痛感が鈍い(変温動物…?)。怒ると静電気を発し、なぜか動物に嫌われる(飼猫のフクちゃんにさえ…)。
一瞬にして菱沼さんの虜になった私は、矢沢の永ちゃんファンが「こんなとき矢沢ならどうするか?」と己に問い掛けるのと同様に、こんなとき菱沼さんならどうするか?と問い掛けて今日までさまざまな場面を切り抜けてきた。他人の言動を気にしすぎる性格の私にとって、常にマイペースで生きる彼女は憧れの存在だったのだ。菱沼さんの脳みそを借りて行動すると心が軽くなった。小学生のころリンスは洗い流すものとは知らずそのまま学校に行っていたのも、大学生のころお座敷のアルバイトでハゲたおじさんの頭にたまり(刺身のお醤油)をたら~とかけてしまったのも、私が“菱沼聖子脳”だったからであろう。(本当か?)
80年代ガテン系男子のカリスマが矢沢永吉であるように、私のカリスマは小学生のころからずっと菱沼聖子だったのだ。
そんな私の心のカリスマに恋の予感がしたのは、『動物のお医者さん』第83回。
会社員でありながら同時に大学での研究も続けている菱沼さんは、大学と職場の復路(歩いて5~10分?の距離)に近道を利用していた。
そんなある日、大雪が降って菱沼さんは雪のなかに埋まってしまう。
そこに一人の青年が現れる。
いいマンガには、名言がある。と誰かが言っていた(ような気がする。)
「年下はダメですか?」と問う青年に菱沼さんはいう。
「札幌オリンピックを知っている?」
これは、菱沼聖子にしか投げられない愛のプロブレムだ。
菱沼さんには幸せになってほしい。ううん、やっぱりずっとこのままでいてほしい…そんなありがた迷惑な願いを考えていると、いつもあれこれ考えすぎる私の心もふくふく整っていくのだった。
足跡が吹雪に消える 恋人は札幌オリンピックでいいの