大澤真幸が読む
『野生の思考』は、西洋の自民族中心主義に対する自己批判の書である。私たちは、科学を生み出した西洋の知が最も進んでいて、他は遅れた未熟な思考だと考えがちだ。しかし本書でレヴィ=ストロースは、「未開人」の呪術的思考(具体の論理)は洗練された知的操作を含んでおり、「文明人」もまた日常の思考や芸術的活動では、同じ「野生の思考」に依拠しているということを証明してみせた。
野生の思考は「器用仕事(ブリコラージュ)」に喩(たと)えられている。素人でも日曜大工等で、ありあわせの道具と材料を使い、それなりの物を作る。これと似て、例えばトーテミズムと呼ばれてきたものは、目の前の自然種を(隠喩や換喩によって)社会集団に対応づけながら、自然と人間とを同時に、巧みに分類している。
野生の思考は、分類のための分析理性だけではなく、弁証法的理性も備えている。弁証法的理性とはこの場合、自然の全体性を自然と文化に分割したことから生ずる矛盾をどう解決するか、ということへの答えである。本書によれば、神話や儀礼はまさにその答えだ。これは、未開社会は弁証法的理性を持たない、としたサルトルへの批判だ。思想界に君臨していたサルトルは、本書によってその地位から引き摺(ず)り下ろされた。
野生の思考を駆り立てている要素は何か。それは「記号」である。自然の具体物は記号のように見えている。こう洞察する際、本書では、「記号」と「概念」とが対比されている。一義的に定義される抽象的な概念と違って、記号の意味は本質的に曖昧(あいまい)で揺らぎがある。
つまり、自然物は、自分が何であるかを自分では十全には決定できない無力さを、さらけ出しているように見えるのだ。自然物は、私を規定してくださいと訴えかけている。野生の思考はその訴えに触発されている。自然と対決し、自然を栽培しようとした科学的思考に対して、自然の脆弱(ぜいじゃく)さを受け入れ、自然と共存する思考がある。それが野生の思考だ。=朝日新聞2020年2月1日掲載