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大ペストから600年の無力 作家・佐藤賢一さん寄稿

人気のないローマ中心部。普段は通勤の車で混み合う道路は、車の通行がほとんどなくなっていた=3月17日

いま、国家が揺らぎかねない時

 コロナ・ウイルスが世界を席巻している。中国武漢で発生、日本にも来るか、もう来たかと騒いでいるうち、感染はアジア、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニア、アフリカと拡大、あっという間に世界的なパンデミックである。

 これは歴史的な事件になるかもしれないというのは、今や一三四七年の大ペストさえ彷彿(ほうふつ)とさせるからだ。それを「黒死病」と呼んで恐れたヨーロッパ人にとっては特にそうだと思うのだが、あるいは遠い中世の話など端(はな)から頭になかったか。

 一三四七年のそれは、中央アジアで発生した。カスピ海の北のルートで黒海まで進んだところで、いたのが、このときも今と同じといおうか、北イタリアのジェノヴァ人だった。クリミア半島のカッファの支配を巡って、モンゴル人と戦争をしていたからだが、これが休戦になると、地中海を船で渡って、さっさと帰国してしまった。一緒に上陸したのがペストというわけで、まずイタリア、アルプスを越えてフランス、ドイツ、大西洋も渡ってイギリス、アイスランド、グリーンランドまで蔓延(まんえん)した。五年間で人口の三分の一が失われ、ひどいところでは半減したと伝えられる大惨禍になったのだ。

 この大ペストを前に、当時のヨーロッパ人はといえば、ほとんど何もできなかった。やったのはヒステリックな八つ当たりくらいで、迫害したのが昨今の中国人ならざるユダヤ人だった。井戸に毒を入れただのなんだのと濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せながら、逮捕、追放、虐殺と手を染めたのだ。こんな黒歴史ばかり残して、どうして当時の人々は何もできなかったのか。

 無能だったわけではない。簡単に下船させてはならないと、もう一三七七年にはヴェネツィアで、入港船に四十日間の碇泊(ていはく)を命じる措置が取られている。四十日はイタリア語でquarantena、フランス語でquarantaineだが、それが今では「検疫」を意味するように、以後広く普及していく。要は隔離だ。病根の封じこめなのだ。地上も同じで、一七二〇年、マルセイユでペストが流行したときは、その外周に出入り監視のための柵と濠(ほり)が巡らされた。近くには飛び地の教皇領コンタ・ヴネサンもあったが、フランスは外国と思うせいか往来を完全拒否、全長二十七キロに及ぶ石の塀まで築いている。やることはやるようになったのだ。

 それを過去の痛手に学んだというならば、一三四七年は仕方なかったか。初めてだったから、何もできなくて当然か。いや、実体験は初めてでも、歴史の教訓はあった。八世紀までは繰り返しペストの大流行が起き、やはり大量死をもたらしていた。史書にもきちんと記録されていたのに、それをどうして活(い)かすことができなかったのか。

 一説に人類は、どんな歴史の教訓も六百年で忘れるという。あるいは知識として持ちえても、現実味を覚えなくなるのかもしれないが、いずれにせよ、今の世界の無力が妙に頷(うなず)けてくる。この二〇二〇年は、一三四七年の大ペストから六七三年だからである。もう過去からは何も引き出せない。だから、うまく対処できない。仕方ないとしても、その報いは大きい。ことによると、世界を一変させてしまうくらいに大きい。

 一三四七年の大ペストはヨーロッパだけで流行したのではない。発生が中央アジアであれば、むしろこちらが本場だ。そこにあったのが、モンゴル帝国だった。今の中国が掲げる「一帯一路」を地で行くような大帝国だが、これがペストによる大量死で弱体化、さらに瓦解(がかい)に傾斜していく。その一部が「元」だが、この中国部分でも、地域によっては人口が半減するほどだった。やはり国家は揺らぐ。政権交代くらいは簡単に起こる。元が滅び、明が建てられたのは、ほどない一三六八年のことである。=朝日新聞2020年4月8日掲載