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若山牧水「若山牧水歌集」 「自然主義」超え、今なお響く

歌人の若山牧水

平田オリザが読む

 先回取り上げた石川啄木の臨終には家族の他に若山牧水だけが付き添っていた。それは啄木の希望だった。牧水はあのプライドの高い啄木が、唯一認めた才能だったのかもしれない。

白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴(なら)しうち鳴しつつあくがれて行く

 旅を愛し、酒を愛した牧水の短歌は文学史的には自然主義に位置づけられるが、その範疇(はんちゅう)を超えて、今も若い世代に訴えるものが多い。私自身、文学に目覚めた頃から、なんとなく啄木よりは牧水にひかれ、これまでにも何度か、自分の劇作の中で引用を繰り返してきた。

 余談だが、この歌集の編者である伊藤一彦氏は、牧水の故郷宮崎県で長く高校の教員として教鞭(きょうべん)をとる傍ら、牧水研究を続けてこられた。俳優の堺雅人さんは教え子の一人で、彼が演劇、芸術の道に進む一つのきっかけが伊藤先生との交流にあったと聞いている。お二人には『ぼく、牧水!』という共著もある。
 啄木に比べると牧水には、社会問題を扱った作品はほとんどない。しかし例えば、次の歌はどうだろうか?

幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 これを、啄木が言うところの日露戦後の「時代閉塞(へいそく)の現状」と重ね合わせることは無理があるだろうか。NHKの短歌の番組で伊藤先生とご一緒した際に、私のこの珍説を披露したところ、「それはたしかに、新しい解釈ですね」と少し苦笑しておられた。しかし、どうも私には、日本の自然を愛した牧水の歌は、変わりゆく国のあり方を嘆く魂の叫びにも思えるのだ。もしもそうであるなら牧水もまた、明治から大正へと続く、近代文学の曲がり角に、しっかりと位置する文学者だと言えるだろう。=朝日新聞2020年5月16日掲載