幼少の頃から心酔する、水木しげるの『劇画ヒットラー』に描かれた、「ねずみ男」に似た貧相なヒトラーは、目つきがだんだんきつくなり、目の隈(くま)が色濃くなっていくように見えた。ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に感化されたデヴィッド・ボウイの「ダイアモンドの犬」は、10代からの愛聴盤で、「スターリン的ディストピア」に妖しい魅力を覚えた。この二人の独裁者は、ゾンビのように私の心を長年蝕(むしば)み、やがて仕事への動因に変化していく。
本書の原書刊行は1998年と2000年で、なかなか邦訳されなかった。「ヒトラー研究の金字塔」を、見過ごすわけにはいかない。08年、東京大学の石田勇治先生に相談し、15年、「白水社創立百周年記念出版」として、上下巻で約2千ページの大作が完成した。
本書のテーマは、平凡な男だったヒトラーが、なぜ未曽有の侵略戦争とホロコーストを遂行し、彼とドイツは自己破壊へ突き進んだのか、ということだ。「ヒトラーはヒトラーによっては説明できない」と著者のイアン・カーショーが指摘するように、ヒトラーだけではなく、独裁者を支えたドイツ社会も描いていることに特徴がある。
むろん戦後75年たった現代に当てはめて考えることも可能だ。欧米では、ヒトラーやスターリン関連書が続々と刊行されている。「民主主義の黄昏(たそがれ)」に、警鐘を鳴らすためだろうか。=朝日新聞2020年6月3日掲載