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「沖縄戦から75年」をひもとく 戦後の試行錯誤含め継承する 戸邉秀明・東京経済大学教授

沖縄戦の戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」=2018年、沖縄県糸満市

 敗戦から75年の今年。戦争体験者と直(じか)に接し、思いを共有できる機会は残り少ない。しかもコロナ禍によって、祈念や議論の場は著しく制約され、貴重な時間が奪われようとしている。

 ただしこの焦燥感は、今に始まるわけではない。体験を継承することの難しさを最も切実に感じてきた沖縄から、私たちは何を学べるだろうか。

絡まり合う抑圧

 昨年刊行された吉浜忍・林博史・吉川由紀編『沖縄戦を知る事典』の執筆者は全員戦後生まれ。自治体史の編纂(へんさん)や教育の現場で働く20~40代が中心だ。

 今や沖縄でも、誤った「ネット」言説を信じる若者がいる。日々彼らに向きあう「非体験世代」の執筆者たちは、史実の正確さは無論のこと、新たな伝え方を共同で模索してきた。本書が戦場の諸相に加えて、体験者の戦後の生き方や取り組みに随所で言及するのはその現れだ。たとえば、ひめゆり学徒隊の生存者でさえ、「睨(にら)んでいるように感じられた」学友の遺影に、自分の証言活動を助けてねと呼びかけられるまで、時間がかかったという。それは「戦争に疑問を持たなかった」当時の自分を見つめ直す時間でもあった。では体験者は、困難をいつ、どのように乗り越えて語り出すのか。その軌跡を含めて「戦争体験」として捉えることが、今後必要な継承の形となるだろう。

 証言が困難な理由は、戦場の悲惨さにとどまらない。眼前の米軍基地にまつわる様々な被害や基地建設の強行は、絶えず戦場を想起させ、言葉にならない恐怖に人々を縛りつける。沖縄の文学は、その沈黙に秘められたものを表現し、想像力の拡張を促してきた。

 崎山多美『クジャ幻視行』は、半世紀前の喧噪(けんそう)が嘘(うそ)のように寂れた「基地の街」を舞台とする連作短編集。「ヨソモン」が寄り集まってできたその街では、戦争や占領の影を抑えこむために、暴力が振るわれ、憎しみがためこまれた。己を頼りに生きてきた主人公たちは、やがて死のとば口に佇(たたず)む時、過去に見棄(みす)てた者からの詰問に脅(おび)え、「都合よく忘れ去っていた」「肝心な何かが思い出せ」ずに苦悶(くもん)する。死者への応答に失敗しても、作家は安易な救いを与えない。そこに、沖縄社会を現在も貫く抑圧が、複雑に絡まり合う姿が見据えられている。

歴史ふまえ点検

 戦争と地続きの戦後を意識する、その手がかりはどこにあるのか。岡本恵徳『「沖縄」に生きる思想』は、沖縄の近代文学を研究する著者が、半世紀にわたり地元紙などに寄せた時評類の集成。著者は少年期の離島での戦争と、土地闘争で米軍の銃剣を前に「逃げた」体験を終生忘れず、問題が起こるたびに、歴史をふまえ、自らを点検しつつ発言を続けた。復帰運動が高揚するさなか、そこに「集団自決」にも通じるのめりこみの心情を見いだし、あえて警鐘を鳴らしたのは、その一つだ。

 とりわけ戦争責任の追及では、「沖縄の内部における相互のきびしい検証」を説いてやまなかった。それが、「先の大戦を肯定する考え方」に「代わるべきアイデンティティの根拠を示しえなかった日本の“戦後”」への著者の批判を、いっそう鋭くしている。変貌する状況のなかでも一貫したその姿勢は、毎日の選択をそのつど省察するための試金石になってくれる。

 ビッグデータやCGで精細に復元された「戦場」も、それだけでは操作しやすい情報となって浮遊してしまう。それを定着させる力は、戦争を伝えようとした試行錯誤が、どんな戦後を形作ってきたのかを知るところにしか生まれない。「戦争の記憶」が、体験から途切れて氾濫(はんらん)する時代がやってくる。沖縄の模索は、私たちにできる抵抗への備えとは何かを考えさせる。=朝日新聞2020年6月20日掲載