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桃からホヤ 長谷川義史

 「好きな食べ物なんですか?」

 子どもたちと顔を合わせた時に大人はとりあえずその場しのぎによくこんな質問しますね。

 さてそんな大人のあなたがそんな質問されたらどう答えますか?
 一番好きな食べ物ですよ。僕は大人になってからもしばらくずーとこの食べ物の名前を答えてました。

 それは嬉(うれ)し恥ずかし噓(うそ)いつわりなしに「桃」です。ピーチです。

 ああなぜか恥ずかしい。でも桃は美味(おい)しい。あの赤ちゃんのお尻のような可愛らしい見た目その肌触り。
 子どもの頃、夏の昼下がりにほのかにぬるい桃を台所の流しの前に立って指で皮を剝(む)いてかぶりついた。
 最後に種の周りの繊維質のところを口の中でレロレロして手に出して眺めてもう一度口にほうり込んでレロレロして終了。
 口からそのまま種を流しの三角のゴミ入れにポイする。
 今はうちの妻が皮を剝いて一口大に包丁でカットして出してくれる。
 ありがたい。ありがたいことですが本当は桃は自分の指で皮を剝いて汁まみれになって食べた方が美味しい。

 ところがところがであります。大人になってからも好きな食べ物「桃」で通していたのにある日ある食べ物により長らく君臨した僕の好きな食べ物の王座の席を「桃」が譲る日が来たのでした。
 その食べ物がそれがあなた……。
 「ホヤですのや」
 ホヤです。食べたことないですか? あの海のパイナップルと呼ばれるホヤです。

 好きな人の間では熱狂的に支持されるホヤ。
 嫌いな人は二度と食べないというし食わず嫌いの人も多いホヤ。
 僕も臭いだの気持ちが悪いだの散々聞かされ出会う機会さえなく四十を過ぎたある日旅先の北海道で初めてホヤと対面しました。

 恐る恐る小鉢のそいつに箸を出し、あのオレンジ色の身をほんの少うし口に入れた時の不思議な感覚。
 今まで他では味わったことのない風味。舌というよりは口の粘膜がびっくりしたような感覚でした。
 これやんかいさ! わしが探し求めていた味は。出会った喜びもさることながら四十になるその時まで会いに出向かなかった自分を叱りました。
 んな大層なこともないのですが。ホヤはほんまに美味しいなあ。
 あの日から僕は僕はホヤが好きになりました。あー食べたい。=朝日新聞2020年9月5日掲載