間もなく公開の黒沢清監督「スパイの妻」を観(み)る機会があった。ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を受賞したばかりのこの作品は、俳優陣の見事な演技や静謐(せいひつ)な緊張の漲(みなぎ)る映像など見所(みどころ)満載だが、戦前の日本を舞台とする物語設定も興味深かった。
神戸で貿易会社を営む男性が満州を訪れる。そこで〈偶然〉目にしたことが、彼と愛する妻の運命を決定的に変えてしまう。
彼は目撃した光景にいわば倫理的に問いかけられる。そしてそれを聞き届けた以上、〈人間〉として応答せずにはいられなかったのである。
誰にも、自分がいつ何にどのように問いかけられるのかわからない。
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だが吉田喜重(よししげ)の『贖罪(しょくざい)』(文芸春秋)の語り手の「わたし」は少年のころ、福井市で織物商を営む実家で読んだ古い新聞記事で目にした「ルドルフ・ヘス」という名に「問いかけ」られるのを確かに感じたのである。
米軍の空襲で実家を失い、戦後東京に移住した「わたし」のその後の人生の詳細は与えられない。ゆえに「わたし」が、本当に著者名にある映画監督「吉田喜重」その人かどうかは曖昧(あいまい)なままだ。
だが本書には、真の主人公=語り手がいる。それがナチスの副総統だったルドルフ・ヘスだ。
戦争中に単独飛行でイギリスに渡り、連合軍捕虜となったヘスが、ニュルンベルク裁判で終身刑の判決を受けたあと獄中で綴(つづ)った手記が、『贖罪』の大部分を構成する。
だが奇妙にも、この手記には「わたし」という主語が出てこない。つまりヘスは、「わたし」という語を一度も用いずに過去を回想する。
一見不自然だが、同時代のドイツの体験を月日単位で執拗(しつよう)に克明に記述するその文章からは、まるでヘスの魂が、本書の筆者=語り手の「わたし」に憑依(ひょうい)して語っているような得体(えたい)の知れぬ迫力が感じられる。
もしも二人をつなぐものがあるとしたら、幼年期に魂に刻み込まれた光景だ。「わたし」は終戦の日に福井で見た農村の風景に空虚と至福を同時に見出(みいだ)す。ヘスもまた少年のころにエジプトで見たコプト教修道院と周囲の無限の砂漠、そして日暮れの黄金の光に包まれた貧しい現地の兄妹の姿を死ぬまで思い出し続ける。
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まるでデジャヴのように、ある本で出会った光景に、まるで無関係な別の本のなかで遭遇して驚くことはないだろうか。
というのも、デイヴィッド・ミッチェルの大作『ボーン・クロックス』(北川依子訳、早川書房)のクライマックスで、主人公ホリー・サイクスが目にするのも、どこまでも広がる〈砂丘〉であり、光り輝く〈黄金の林檎(りんご)〉だからである。
東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』(角川文庫)を日本出身の妻と英語に訳してもいるミッチェルは、カズオ・イシグロも高く評価する、壮大な構想力と緻密(ちみつ)な表現を備えた実力派の人気作家である。
本作では、SFやファンタジーの手法を駆使しつつ、1984年から2043年にかけて、イギリスの地方都市でパブ経営の家に生まれたホリーの生涯が、彼女自身と彼女と関わる者たちによって語られる。
ホリーは少女のころ母に反抗して家出をする。だがその間に大切な弟が神隠しにあったかのように消えてしまう。弟は自分を探そうと外に出て……と彼女は罪悪感に苛(さいな)まれる。
ホリーには不思議な力があり、それが奇妙な出来事を次々と誘引する。翻訳で600ページ超の二段組みの叙述を、時が経つのを忘れて読み進めるうちに、ホリーの内に文字通り「閉じこめられた」驚くべき謎の正体が明らかになっていく。
本作の主題のひとつは、魂の転生だ。宿る身体を変えて生き続けていく者たちが登場する。
転生は文学の王道的な主題とも言えるが、逢坂剛『鏡影劇場』(新潮社)では、自身をドイツロマン派の作家E・T・A・ホフマンの生まれ変わりだとうそぶく風変わりなドイツ文学者が、この音楽にも秀でた異能の作家に関する謎の手記を解読する。
しかも、その解読の物語である『鏡影劇場』という小説は、著者・逢坂剛に送られてきたフロッピーディスクに含まれていたものだという……。
むろんこれは物語の真偽や現実と虚構の境界を曖昧にする仕掛けだ。
だが些(いささ)かの曖昧さも許さず揺るぎなく本書を支えているものがある。
著者のホフマンへの限りない愛と積年にわたる徹底的な文献調査。読書の愉楽をもたらす真正な虚構を生むのは、つねに真正な労苦なのだ。=朝日新聞2020年9月30日掲載