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パンが焼きあがる 奥泉光

 新型コロナ禍で逼塞(ひっそく)するさなか、パンでも焼いてみようと思い立ち、生まれてはじめて作製に取り組んだパンは、オーブンがピイと鳴ってついに完成した。ミトンを嵌(は)めて取り出してみれば、六個の茶色いまるいパンが台の上に並んでいる。パンとパンが繋(つな)がってしまった部分もあるが、全体にはいい感じだ。香りも悪くないし、なにより可愛らしい。が、まだ油断はできない。

 だいぶむかしの話になるが、さる有名温泉地の一流旅館に泊まって夕食を食べた。二の膳、三の膳と次々でてくる料理はどれも豪華で、さすがは老舗旅館だと感心して箸をつけたら、これがひどくまずい。吸い物と飯とおしんこくらいしか食べられるものがなかったというと、そんなわけはないだろう、誇張がすぎると笑われるが、本当のことだ。ちなみに自分は決して食通ではない。『美味(おい)しんぼ』に出てくる海原雄山のごとき人間ではない。だから自分でも驚いたのだが、料理全体が、店先に飾ってある食品サンプルを本物にしたような――というのは意味不明だが、なんとなくわかっていただけるのではないかと思う。

 それでパンである。まずはナイフで切ってみた。と、表はかりっと、なかはふんわり。お、いい感じではないかと思いつつ口へ運んでみれば、これがまずくない。というか、うまい! 一切れ食べた妻も、素晴らしい! と賛嘆しきりだ。これは継続的に夫がパンを焼くのを望むがゆえの政治的行動であると、わかっていても自然と頬が緩んでしまうのだから、言葉と酵母の力はすごいもんだ。切ったパンを灯(あか)りに透かせば、気泡が美しく並んでいるのに感動した。

 成功に気をよくした自分は、それからは三日にあげずパンを焼くこととなった。調べると、一口にパンといっても、じつにたくさんの種類がある。粉の種類はもちろん、酵母もいろいろで、レーズンやヨーグルトから自家製作することもできるらしい。このあたりは奥が深そうで興味をそそられるが、まずは簡便なドライイーストで、田舎パンというのか、小麦と、塩、水だけで作るパンをきわめてみようと考えたあたり、自分はつくづく職人気質なのだと思う。同じものを、よりよい品質を目指して、くりかえし作るのが自分はいやではない。ここは性格のでるところで、たとえばさっきから夫にしきりと声援を送っている妻は、いわば芸術家気質で、料理でもなんでも同じものを作るのをいやがる。新機軸がないと駄目らしい。しかし、自分は違う。結果、春から夏、我が家の食卓にはほぼ同じようなパンがしばしば上ることとあいなった。が、さすが西欧世界に君臨する主食だけのことはある。まるで飽きがこないのであった。=朝日新聞2020年10月17日掲載