北海道のオホーツク海側の北辺にある猿払村へは、イトウの産卵行動を撮影する目的で毎年のように訪れている。イトウは日本の淡水魚中で最大の魚で、十勝川では2・1メートルという記録も残されている。絶滅危惧種で一時幻の魚と言われるほど数を減らしたが、近年関係者の努力によって少ないながらも生息数は安定している。
イトウはサケやカラフトマスといったサケ科の仲間ではあるが、珍しく春に産卵する。オホーツク海を埋め尽くしていた流氷が離岸し暖かな春風が吹き荒れると山の雪が一気に融(と)けだす。湿原の川は真っ茶色の濁流と化しオーバーフローするほどに膨れ上がる。このタイミングでイトウは上流や支流に遡上(そじょう)して産卵する。モノトーンだった湿原もミズバショウやエゾノリュウキンカ、エゾエンゴサクなどがニョキニョキ伸びて可憐(かれん)な花を咲かせ、数日でお花畑に一変する。湿原のさらに奥の森に入り込み、ひとしきりイトウたちの写真を撮っていると、自然と視線が山に向いてしまう。いつものことながら撮るか採るかで迷う瞬間だ。ギョウジャニンニクもそろそろ芽を出している時期だ。修行で山歩きをする僧がこれを食べて精をつけていたという逸話から行者ニンニクという名前になったという。北海道の春の山菜は豊富でエゾノリュウキンカの茎やフキノトウ、アザミの芽などもおいしいがギョウジャニンニクには到底敵(かな)わない。
見つけたらカメラ機材は雪上に置いて崖にとりつき、露出した木の根や草を頼りに急斜面をよじ登ることになる。地面にある程度湿気があり日当たりの良い場所を好んで生えるから表層は乾いていても下の土は水分を含んでいて滑りやすい。6メートルほど登ったところに群生があって手で持ちきれないほどの量を収穫できた。ギョウジャニンニクはニンニクと同じアリシンを含んでいるので手はものすごいニンニク臭だ。食感はネギやニラに近く香りがニンニクだからどんな料理にも合う。定番はサッと茹(ゆ)でたおひたし。バターで炒めてマヨネーズで食べるのもいい。細かく刻んで餃子(ギョーザ)の皮に包みギョウジャニンニク餃子という食べ方も最高だ。近年ハマっているのはオホーツク海産春アサリとギョウジャニンニクの酒蒸しだ。流氷の下で豊富なプランクトンを食べ驚くほど濃厚な味になったアサリとギョウジャニンニクの組み合わせは絶品ものだ。もう少し採りたいが斜面はさらに急勾配になり足はツルンと滑って空回りしてほとんど宙ぶらりんだ。木の根から手を離すとズズーと滑り落ちてしまう。進退窮まって泥だらけの長靴越しに下を見ると、熊笹(くまざさ)の間を蛇行する流れが見えた。真っ赤なオスのイトウに寄り添い産卵床を優雅に掘るメスの姿が見えた。=朝日新聞2021年2月13日掲載