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口福じゃなくて、口泣くだよー!

 「作家の口福」はいつも楽しみの欄。

 何を書こうか、淡路で汗をかきかき食べた「はも鍋」も書きたいなあ。佐賀のキンカン。いや高知こどもの図書館に行った時の日曜市での……と、思いめぐらしながら、私は暫(しばら)く乗ってない自転車で夕暮れの鎌倉の道を走った。途端に「がーん!」と転んで、救急車で運ばれ顎(あご)を縫った。

 その上、前歯も折れて歯がないのだ! 作家の口福なんて吹っ飛んで口泣きだ! 顔は紫色に腫れ上がり、前歯がない山姥(やまんば)になってしまった。「頭も打たず、足腰も骨折なし、縫った傷は皴(しわ)になるから目立たなくなる。歯は見栄え良く治してあげる」と歯科医師は慰めてくださるが、痛くて食べられず、鏡ばかり見て愚かな自分を嘆いた。

 家の者にこっぴどく叱られた。「お前は病気はしないが怪我(けが)ばかりする。木にぶつかり眉間(みけん)に傷。植木屋に任せば良いのに、手伝って『梅の枝で目をついて痛い』と植木屋に眼科に連れて行ってもらった。昔、上がり框(がまち)で慌てて転んで頭打った! まだあるぞ、床下収納庫のふたを開いて換気していたら、忘れて落ち込んで、俺がおぶって病院まで連れてったこともある。まだいくらでもあるぞローラースケートで転んで……」と並べ立てる。

 ああ痛い! なにも食べられないのにこんなに叱られて……、私が悪いけど……。「作家の口福の締め切りも迫っている。これでは口福なんて書けないわ。口泣きだよ。痛いよ~。あーん、あーん!」と泣き顔の私を見て可哀想に思ったか、「お粥(かゆ)炊いてやる」と土鍋コトコト、「リンゴ摺(す)ってやる」とリンゴは皮も剥(む)かず、シャリシャリ摺って赤い皮の色が点々とついたのを差し出す。

 少し口に入れると沁(し)みるがおいしい。子どものころ風邪ひくと母がリンゴを摺ってくれたなあ、久しぶりの味だと、懐かしく嬉(うれ)しくなる。

 救急車で運ばれたから怪我したことがご近所に知れ、井上ひさし夫人のユリさんが、おいしいスープや、軟らかい料理を届けてくださった。孫も「食べられる?」と心配してくれるし、行きつけのカフエから「じいじスープ」もいただき嬉しく、作家の口泣きが途端に口福に変わった。

 縫った糸も取れたが口元から顎にかけ紫痣(むらさきあざ)は迫力がある。でも幸いマスクがあるから見つからずに隠せるが、マスクを取り「お化けだぞう~~~」と友人や家族に驚かせてみたくなり。「なんか鬼滅の刃の様でカッコイイ?」と言ったら「バカタレ」と叱られた。=朝日新聞2021年3月6日掲載