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虫のこころざし 津村記久子

 一戸建てからマンションに引っ越して良かったことの一つは、あまり部屋に虫が入ってこないことだったのだが、先日、掃き出し窓を開けて涼んでいた時にコバエが入ってきて、しばらく部屋にいる。

 一日に数回、少し遠くを飛んでいたりするのを目撃するたびに、メスでないことをただ祈りながらおやつの食べ残しを片づけている。このコバエは昨日見たのと同じコバエだろうか、とも考える。もしかしたら何匹か入ってきていて、毎日違うやつを見ているのかもしれないけれども、先ほどコバエの寿命について検索したら、寿命は一か月から二か月、とのことだったので、同じかもしれない。

 コバエが来てから、わたしはさらなるコバエを呼び込まないために窓を開けなくなったのだが、こうなるとすでに入ってきているコバエにとっては、出口がなくなることが問題だろうと思う。だからコバエにとって、人間の部屋に入ることはあまり得策じゃないと思うのだけれども、コバエの体の小ささから考えると、人間が居住しているぐらいの広いスペースに入り込んで、食べるに困らないで寿命まで暮らせるなら万々歳ということなのかもしれない。わたしがべつのコバエなら、こいつ志が低いよな、やっぱ自由だろ、と思うだろうけれども、コバエがコバエ同士どうジャッジし合っているのかは、人間にはあずかり知れない。

 先日、ツール・ド・フランスを観(み)ている時にコバエが現れた際、まあ20ステージはだいたいおもしろいから観たいんだろうな、などと考えていた。以前もこの欄でわたしは蛾(が)に話しかけていたけれども、一人でいすぎてすぐ虫の側の気持ちになるのは危ないような気がしてきた。

 そろそろコバエとの同居もつらくなってきたので、コバエ用の罠(わな)を買ってきた。コバエはいなくなったが、罠の中にもいないので、どこで何をしているのだろうと、心配になるでもないけれども、後学のために消息は少し知りたい気がする。=朝日新聞2021年8月4日掲載