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悲しみは共有できないけれど 小池真理子

え・横山智子

 喪失のかたちは百人百様である。相手との関係性、互いの間を流れた時間、悲しみの有り様もふくめて、どれひとつとして同じものがない。喪失はきわめて個人的な体験なのだ。他の誰とも真に共有することはできない。

 夫を見送ってからずっと、私は自分にそう言い聞かせてきた。そのために生じた孤独は大きく、コロナの自粛時期と重なって、さすがに厳しいと思うことも多々あった。だが、子どものように地団駄ふんで泣き叫んだところで、死者は甦らない。過ぎた時間も戻らない。致し方なかった。

 夫の生命が尽きてから、約二十日後、長らく夫婦同士の交流があったMさんの妻が急逝した。がんだった。病名がわかった時はすでに遅く、彼女は自宅でMさんや息子たちに囲まれながら、息を引き取った。

 昨年十月、台風一過の、よく晴れた日の午後だったが、私たち夫婦は、M夫妻と偶然ばったりすれ違った。夫妻に夫の病のことは打ち明けていなかったので、私たちはごくふつうの世間話を交わした。それから四カ月もたたないうちに、四人のうち二人が相次いでみまかったとは、今も信じられない。

 Mさんは報道で夫の死を知り、すでに死の床についていた夫人に報告した。夫人は一言、「真理子さんが心配」とつぶやいたという。そのエピソードは、夫人の死を知らせるMさんからの手紙の中に書かれてあった。私は泣きくずれた。

 Mさん夫妻は団塊の世代。森を散策し、高原の樹木や花、野生の小動物を観察することをこよなく愛する夫婦だった。Mさんが定年退職してからは、それまで住んでいた家はそのままにし、今私が暮らしている町に部屋を借りて、ほとんどの時間を共にこちらで過ごすようになった。

 夫妻の仲睦まじさは、私の知る限り、他に類をみないものだった。二人は決して離れない番(つが)いの鳩のように、いかなる時も一緒だった。

 Mさんは後日、電話で私に亡き妻の話をしながら、幾度も男泣きに泣いた。息子や嫁の前では決して涙を見せないが、独りになると声をあげて泣いている、いつまでこの悲しみと共に生きていかねばならないのでしょう、としゃくり上げた。

 死別を経験した直後の者同士だからこそ、涙の理由も身体を半分もぎ取られたような痛みの数々も、説明抜きで理解し合える。

 今、Mさんは、一眼レフのカメラを手に、かつて妻と巡った森や渓流沿いの道を散策するのを日課にしている。夫妻は、動物がねぐらにしそうな樹の洞を探し出しては、ムササビが顔を覗かせた瞬間を撮影するのを愉しみにしていた。

 秋の気配に満ちた森の樹の、湿った洞の暗がりの中に、もうムササビはいないかもしれない。ムササビの代わりに、そこにはMさんが亡き妻と過ごしてきた膨大な時間が、優しい音をたてながら絶え間なく流れているように思う。(作家)=朝日新聞土曜別刷り「be」2020年10月10日掲載

 〈読者のみなさんから〉

第1回の「金木犀の香りと若かった日々」などへの感想が届きました。

 作家二人金木犀を見つけたり 

 おふたりにとっての響き合う時間は、かけがえのない二人だけの時間でしたでしょう。諍いと和解。私達夫婦も団塊世代として、諍いと和解を繰り返しながら今があります。いい香りの金木犀がどこにあるのか迷い探しながら今があります。 

東京都、杉山利一

 愛する人を亡くした人間の慟哭が静まりかえった森にのみ込まれていくようで、読み手としてはつらい。けれど究極の哀しみの中から生まれ出た言葉の美しさに心が震える。

東京都、佐藤えり

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  小池真理子さんのエッセー「月夜の森の梟」は2020年6月から翌年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された。2020年1月に死去した夫であり、作家の藤田宜永さんをしのぶとともに、哀しみを通して人間存在の本質を問う内容には大きな反響があった。便箋10枚、20枚といった手紙が届き、メールを含めれば千通近いメッセージが寄せられていた。11月に連載をまとめた単行本『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)が刊行されるのを前に、追悼を文学に高めたと評されたエッセーの一部を紹介するとともに、その魅力を探っていく。
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 読者のみなさんからの感想やご意見を掲載します。メールは件名に「月夜の森の梟」と入れて「好書好日」編集部(book-support@asahi.com)へ。郵便は〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2 朝日新聞社メディアデザインセンター「好書好日」編集部にお送りください。感想を掲載する場合、事前にご連絡をします。連絡の取れる電話番号またはメールアドレスなどをご記入ください。

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「月夜の森の梟」は朝日新聞デジタルで全50回を読むことができます。