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『塞王の楯』刊行記念【対談】今村翔吾×千田嘉博(後編) 城と殿様、民の関わり

左から、作家の今村翔吾さん(集英社提供、撮影:山口真由子)、城郭考古学者の千田嘉博さん(撮影:畠中和久)

対談の前編はこちら

戦のなかでも石垣を組み直すプロ集団

千田:『塞王の楯』を読まれた方が一番驚かれるのが、穴太衆が戦の最中に石垣を修復したり、組み直したりしていることではないかと思います。今村先生はこの作業を「懸(かかり)」という造語で表現されています。
今村:この作品の執筆にあたり取材させていただいた穴太衆の末裔、滋賀県の粟田建設の粟田純徳(すみのり)社長から、「ゆっくり時間をかけて石垣をつくれるのは太平の時代だけ。戦国時代はそんなに悠長につくっていられなかった」なんて話を聞きました。石垣づくりが1日遅れたら、明日城が落ちるかもしれない。そんな切羽詰まった状況で、石垣をつくることもあったようなんです。また、後に加賀藩に雇われて武士化していくパターンもあり、やはり彼らの職域である石垣の仕事をしていたのではないかという推察とともに、「懸」という言葉を思いついたんです。
千田:穴太衆が戦時、具体的にどのような仕事をしたのかは史料ではわかっていませんが、たしかに「懸」のような行為は違うところで記録として残っています。大坂冬の陣、豊臣家滅亡へ向かう籠城戦での出来事です。このとき、徳川方は大量の鉄砲で大坂城の城壁を攻撃します。城壁が崩されればそこが突入口になるので、豊臣方は必死で崩れた城壁を直します。徳川軍は直させまいと、さらに鉄砲を打ちまくる。そんな銃弾が飛び交うなか、豊臣方はついに城壁の修理を完了させるのです。これには、敵の徳川軍の将兵たちもあっぱれだと賛嘆したという記録があります。『塞王の楯』の終盤でも、匡介らが大津城の激戦のなかで崩れた石垣を修復し、組み直しますね。
今村:史料には残っていなくても、大津城の戦いでも目の前に銃弾が飛び交うなかで石を運ぶといった「懸」のような局面はあったのではないかと考えています。

今村翔吾さん(集英社提供)

千田:この作品でもう一つすごいのが、石垣を積む積方だけでなく、石を切り出してくる山方や石を運ぶ荷方の仕事などについても丁寧に描かれていることです。このような石垣のロジスティクスな部分も記録がないため、あまり研究は進んでいません。後の時代の絵巻物や屏風絵にわずかに描かれていたりしますが、実際にどうだったのかはよくわかっていません。にもかかわらず、この作品では技術体系をふまえ、組織としてチームワークで石垣がつくられていた様子が見事に描きだされています。
今村:僕も最初は穴太衆とは、石を積むだけの職人の集団だと思っていたんです。でも取材で荷方や山方の話をうかがい、チームでやっていたことに驚きました。実際、山を切り出し、石を運ぶことはとても大変な作業です。だからそれら全体で穴太衆なんだという世界観を描きたかったのです。彼らはきっと、プロフェッショナルとして自分たちの仕事に誇りをもっていたはずです。例えば『塞王の楯』では、荷方の頭領の玲次が石垣を納期内に完成させるために、命がけで石を運び届けるという、強い責任感で仕事をします。この作品では、穴太衆の矜恃もちりばめて描きたいと思いました。
千田:会社であまり光が当たらず、感謝もされにくい部署で奮闘している人はたくさんいらっしゃるので、会社勤めの方が読んだら泣いてしまうと思います。世の中の組織はさまざまな人が、それぞれの持ち場できちんと任務を果たすからこそ動いているわけですよね。この小説でも特別な才能をもった塞王だけでなく、それぞれの持ち場でプロフェッショナルな仕事をする人たちの総合力で、石垣ができあがっていく様子が描かれています。組織論としても読み応えがあります。

民はただ弱いだけの存在だったのか?

今村:戦国時代の戦となると、どうしても武将にばかり目が向きます。でもこの作品では、戦を職人や農民がどうとらえ、戦のなかでどんな行動をとっていたのか。そういった部分もしっかり描きたいと思いました。
千田:その点についても、今村先生は近年の研究成果をふまえておられると感じました。お城は殿様が権威を示すために、一方的に民衆を酷使して建造したというイメージは過去のものです。最近の研究では、お城は殿様だけでなく、民衆のものでもあったことが明らかになっています。例えば軍事的な危機のときには逃げてくる民を受け入れ、保護する義務がお城の側にありました。それができない領主は民から見捨てられます。また民衆がただ武士に守ってもらうだけの弱者だったというイメージも覆りつつあります。
今村:僕も「弱い民」と一概に言うのはちょっと違う、という気がしています。
千田:実は民衆は、かなりしたたかな面もあったようです。例えば、自分の殿様が負けそうだと思えばお城へは逃げ込まず、山などに逃げ、中立を決め込みます。そして戦が終わった後、勝ったほうの領民となるのです。
今村:実際にそうやって、人々が戦を見物している絵もありますよね。
千田:民衆は領主に従うだけでなく、ときには領主と異なる意思決定、行動をとることもありました。『塞王の楯』でも、彦九郎の大筒に大津城が攻撃されるなか、ここにいたら殺されると力ずくで逃げようとする民衆がいます。匡介たちの狙いや奮闘がわかっている私は、「なんでわからないんだ、城から出たらやられるぞ」と気をもみましたが……。
今村:僕もその場にいたら、きっと「城から出せ」と言ったと思います(笑)。
千田:武士でなければ、それが普通かもしれませんね。ところで、この小説は近江の大津城主から後に若狭の小浜藩主となった京極高次を、いまだかつてなく素敵な大名として描いた作品だと思います。
今村:大津城の戦いの場面を読んだ人から、「京極高次が一番好き」との声をたくさんいただいています(笑)。

今村翔吾さん(集英社提供)

千田:大津城攻防戦のときの高次と家臣たちのやり取りは、武将の逸話を集めた説話集で伝えられています。高次のために「なんとしても城を守るんだ」と奮闘している家臣に、高次は「その忠義は本当にうれしい。でも自分のために命を投げ出すなんてことはしないでくれ」と言うんですね。それを聞いて家臣は感動し、ますます城と高次を守るために命がけで頑張ります。最終的に、高次は降伏します。でも開城して外に出た京極の侍たちは、敗軍兵として罵声を浴びられることもなく、むしろ尊敬の眼差しで見送られた。そんな記録が残っています。今村先生もこれをご存知で書いたのかもしれませんが、『塞王の楯』で描かれる高次と重なります。
今村:僕もその記述は読んだことがあります。むしろ、ほぼその逸話だけに基づいて書きました(笑)。僕は一次史料にももちろん当たりますが、逸話や言い伝えもよく取り入れます。火のないところに煙は立たないと思うからです。あと一つ、自分で書いていて面白いと思ったのが、高次と戦う立花宗茂、この二人の対比です。高次は蛍大名とも呼ばれたように、戦が下手で、武将としてはもともと評価の低い人物です。いっぽう立花宗茂は、どこからみてもパーフェクトな超エリート武将です。戦績を見ても、常軌を逸していると思うほど強い。この二人が激戦を繰り広げている構図は史実でありながら、まるで漫画の世界のようにおもしろいと思いました。
千田:宗茂は戦えば、敵が圧倒的に多くても必ず勝つ、鬼神のような武将です。そんな宗茂のところに、穴太衆のライバルである鉄砲鍛冶の国友衆のリーダー、国友彦九郎(げんくろう)が行ったわけですから、塞王は負けたなと最初は思いました。ところが、匡介たちが想像以上に頑張るわけですね。

本作を読んで訪れたい、石垣が見どころの城

千田:ところでもう一つ、この作品で舌を巻いたのが大津城の改修です。大津城は現存しませんが、琵琶湖に本丸を突き出したお城でした。そのため琵琶湖側から敵は近づけない。陸地側をいかに守るかが防衛のポイントです。ところが琵琶湖に向かって低くなる地形なので、一番外側の外堀を水堀化するのが難しかった。ここが大津城で篭城戦をするうえで、最大の課題だったことは間違いありません。その難題を、この作品では匡介があるアイデアを使って解決します。ここはもう、お城ファンとしては最高に胸アツな場面でした。
今村:大津城は廃城になってしまったため分からないことが多い分、そこは数少ない史実をもとに、思い切り想像を膨らませて書きました。僕自身は、おそらく大津城の外堀は結局、水は入ってなかったのではないかと思っています。でも少なくとも水を入れる努力はしたはずです。そこで僕自身、当時の穴太衆になったつもりで、大津城を水堀化させるにはどうしたらいいのか、あれこれと頭をひねりました。その結果、生まれたのが作中のアイデアです。あの手法は後の時代に、金沢城で実際に採用されたものをヒントにしました。
千田:そう言った意味では偉いのは匡介ではなく、今村先生だったんですね(笑)。この作品では他に、大分県の長岩城など何のためにつくったのかよくわからないレアな石垣も、驚くかたちで登場します。マニアにはたまりませんね。
今村:日本全国の石垣や遺構には謎も多いですよね。この作品には、そんな歴史のロマンを思い切り詰め込んだところもあります。うれしかったのが、この小説を読んだ方から「皇居の見方が変わった」とのツイッターの投稿があったことです。いままで何げなく散歩しながら見ていた石垣を感慨深く思いながら見た、というのです。
千田:たしかに『塞王の楯』を読むと、石垣や城の見方が大きく変わります。またきっと、全国にあるお城や石垣を見に行きたいと思うようになるでしょう。そこで最後に、初心者の方にまず見ていただきたい石垣を紹介したいと思います。

姫路城を訪れたときの千田嘉博さん(千田さん提供)

今村:ぜひお願いします。
千田:匡介たちがつくっていた石垣は、江戸城のようなきれいな切石積みの石垣ではありません。大きさが一定ではない石と石を、奥でかみあわせた実践的な石垣で、野面(のづら)積みとか穴太積みなどと呼びます。この手の石垣が手付かずのよい状態で残っているのが、滋賀県の安土城です。匡介が憎んでいた信長が建てた城ですね。ここでまずは、野面積みの石垣のすごさを体感していただきたいと思います。そのうえで、見ていただきたいのが大坂城です。現在の城は豊臣家を滅ぼした後、徳川幕府が再建したものです。縦、横、奥行きを厳格に決めた石を積み上げた、切石積みによる石垣の美しさは圧巻です。匡介たちがつくっていた石垣が進化し、平和な時代にお金と時間をたっぷりかけてつくった究極の石垣です。その他にも日本全国にはたくさんの魅力的な石垣があります。この小説を読んでから訪れれば、匡介たちの奮闘が蘇り、何倍も楽しめるのではないでしょうか。
今村:そんな全国のお城を、千田先生と一緒に訪ね歩いてみたいです。
千田:それはぜひ実現したいです。
今村:ぜひ。千田先生、今日は本当にありがとうございました。