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井上一夫さん「渡された言葉 わたしの編集手帖から」インタビュー その人だけの響きを聞く

井上一夫さん

 志という言葉が僕は苦手でね、と言う。岩波書店に40年勤め、学術書や新書を担当した人から聞くには意外とも思えるが、だからこそ幅広い人物と深い仕事が出来たのだろう。健康な野次馬(やじうま)精神を旨としてきた。永六輔『大往生』(1994年)の破格の売れ行きで新書の歴史に画期を成したのは、この人である。

 本書には、学者や俳優、歌手ら一緒に本をつくった著名人から「渡された」言葉が書き留められている。沖縄の反戦地主だった阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)の「人間は立つと乱暴になります。座って静かに言いましょう」、合唱指揮者関屋晋の「それぞれの人の声にはその人にしかない響きがある」などなど、至言、金言は数多い。

 新米時代の『日本思想大系』の作業では、日本古代史家の青木和夫の粘り強さに感銘を受ける。「ここまで調べたけれど、やっぱりわからない」と漏らすのを何度も聞いた。文献から出土品の材質に至る徹底した調査の末の「わからない」に、学者魂とは何か、わかるとは一体どういうことかを著者は体得していく。

 編集にマニュアルなし、自分なりのノウハウは「後知恵の大系」、笑いこそが権威権力を撃つ――著者の言葉もまた随所で記憶に残る。

 ネット社会で情報があふれる今、「編集知の復権」を語り、失われつつある「雑談」の効用を説く。公に発する言葉は緊張感と責任を伴う。若い頃に読んで影響を受けたのが、ナチスに銃殺されたフランスの歴史家マルク・ブロックの本と聞けば、SNSの言葉を憂えるのも当然か。

 渡された言葉とは、渡される側に感度がなければ成立しない。だから本書は著者自身をよく語っている。多彩な人物を描きながら通じるものを感じるのは、まつろわぬ人たち、自分の言葉で語る人たちであるからだろう。著者の「志」でもあるに違いない。(文・写真 福田宏樹)=朝日新聞2021年12月11日掲載