「戦争っていうのは悲惨なものじゃないんですよ」
たまたま見かけたある政党関係者の演説動画から飛び出した言葉に、私は耳を疑った。思わずもう一度再生してみたが、確かに彼は聴衆の前で堂々と、その言葉を放っていた。もしもここで語られているのが、勇ましい「男の言葉」で語られてきた「男の戦争観」なのだとすれば、戦時下を生きた、もしくは今まさに生きている女性たち、子どもたちの声にこそ、耳を傾けるべきだ。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが戦禍を生き抜いた女性たちの心の道筋をたどった、『戦争は女の顔をしていない』を隅々まで読み、彼女たちの言葉を深く刻みつけるといい。
訳者の三浦みどり氏のあとがきによると、ソ連では第2次大戦中、100万人をこえる女性たちが従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加した女性たちもいたという。
子を沼に沈め
「悲惨ではない」と言い放った彼らには、慟哭(どうこく)のような女性たちの言葉が届くだろうか。泣き声が響いては皆が危険にさらされるからと、自らの赤ん坊を冷たい沼に沈めるしかなかった母親の押し殺した叫びが。戦地で男たちと共に銃を持ち、シラミと汚泥にまみれ、生理の経血を垂れ流すほかなく、しまいにはその生理さえ止まってしまった女性たちの悲鳴が。終戦後も「戦地ではたくさんの男と寝たんでしょ?」「戦争の雌犬め」と、あらゆる侮辱に耐えなければならなかった苦しみが。戦地にイヤリングを密(ひそ)かに隠し持っていった、ささやかな「抵抗」が。戦争の「勝利」にわく巨大な渦の中、時になきものとされてきた、「小さき人々の物語」がここには凝縮されている。
そして、何人かの女性たちが証言する。捕虜になり、性暴力で妊娠をした末に自ら命を絶ったロシアの女性や、一晩中、兵士に暴行されたドイツの少女たちのことを。これは、決して欧州の地だけで起きたことではない。
逃れた先でも
『翡翠色の海へうたう』は先の大戦下、朝鮮から沖縄まで連れられ、日本軍の「慰安婦」として搾取された一人の女性の生涯と、現代を生きる小説家志望の女性の葛藤を深沢潮が綴(つづ)った小説だ。「男性目線で見た女性像」ではなく、一人の人間として、主人公たちの内面を細やかに描き出す。ここに記された戦時下の性暴力は、「偶発的に起きた、仕方のないもの」ではなく、相手を支配し、戦争を遂行するために「道具」として利用し尽くすものだった。
今の世界に目を向けてみよう。2011年に戦争が始まったシリアでは、11年以上を経ても、殺戮(さつりく)は止(や)んでいない。戦争しか知らずに育った子どもたちは、欧州へと逃れてもなお、「戦時下」を生きていた。キャサリン・ブルートンによる児童書『シリアからきたバレリーナ』の主人公のアーヤは日々、過酷な旅の途中で行方不明となった父を思っていた。けれども、立ち止まることは許されない。時に茫然(ぼうぜん)自失状態となる母を支え、幼い弟を守ってきたアーヤは、「大人にならざるをえない子ども」だった。やっとたどり着いたイギリスでも当初、彼女たちに関心を払う人はほとんどいなかった。
まるで見えない存在のように扱われることに、アーヤはじっと耐えた。それは私がこれまで出会ってきた、シリア難民の少女たちにも重なる。彼女のように「迷惑な存在だと思われたら」と怯(おび)えながら暮らし、自ら声をあげることができない子どもたち、女性たちがこの世界に無数に存在しているだろう。
「声の大きな人々」の物語が、まことしやかに語られていく。だからこそ、彼女たちの存在に、声に気づいた人々が、戦争の安易な美化と賛美に何度でも抗(あらが)う必要があるはずだ。=朝日新聞2022年8月20日掲載