新たな本棚が無性に欲しい。入りきらない本を床に積んでいるが、地震が来るたびに雪崩を起こすので、そろそろ本格的に探したいのだ。しかしお値段お手頃なのに頑丈でサイズもピッタリのものは、一体どこにあるのやら……。
そんなことを考えながら神保町で電車を降り、九段下方面に向かう。移動書店のハリ書房が、この日はバックヤードでもある神保町の拠点をオープンしていると聞きつけたからだ。
ボロボロになってもずっと大事な1冊
店主のハリーさんは新潟出身。地元の高校に通っていた頃は生徒会に籍を置き、卒業後は学生時代からアルバイトしていたゲーム会社に就職した。その後他の会社の開発部署へ移り、約10年間ゲーム会社で働いていたそうだ。
「デパートなどにあった屋上遊園地の現場を5年、開発部署のリサーチやイベントを5年担当してキャラバンなどで全国を駆け回っていました。屋上遊園地ってレトロなイメージがありますが、2000年代初頭までは全国各地にあったんですよ」
子どもは言わずもがな、大人にとっても癒しスペースだった職場を離れたハリーさんは、本好きもあり神保町の地で、イベントのフリーランスとして独立。時には祭り会場でさんまを焼き、時には運動会の手伝いをするなど、あちこちを飛び回っていた時に神保町と縁ができた。
「会社が神保町界隈だったこともあり、企画を考えるために千代田図書館に通ったり、三省堂や東京堂などをよく巡ったりしていました」
最初の頃は仕事に役立つ本を、と思っていたものの、読み進めていくうちに体系的なつながりを持つ、他ジャンルの本を手に取るようになった。学生時代はお金に限りがあり、1冊の本を繰り返し読んでいた。しかし社会人になったら、たくさんの本が読めるようになったことが喜びだった。ちなみに学生時代の1冊は、今も持ち歩いていて折に触れて読み返しているという。
「もう、すっかりボロボロになってしまっているんですけど」
ハリーさんがすっと差し出したのは、諸橋轍次氏の『荘子物語』だった。孔子や老子は時に触れることがあるけれど、孟子と荘子はなかなか手が出し辛い(※個人の感想)。その荘子の思想を解説した本は、カバーはもちろん小口部分にも使用感があふれていた。本当にハリーさんは何度も繰り返し読んでいたのだろう。なんと幸せな本なのか。
本そのものを応援したくて
そんなハリーさんが本屋を始めたいと考えるようになったのは、イベント会社で働いていた2017年頃だった。地元新潟でも東京でも、自分が行きたいと思える本屋が減り続けていたのがきっかけだった。
「売る場所がなくなってしまったら、果たして本はどうなってしまうのだろうと。でも自分で店を始めたいというより、ずっと読者でいたい気持ちの方が強くて。だから出版社を応援する意味でも、やるなら新刊を扱いたいと思いました」
「あとは実家がある新潟市内の住宅地の周りには本屋がなくて。市内の繁華街には大型書店がありますが、帰省するたびに寂しく感じていたので、移動書店は最初からやりたいと思っていました。子どもたちが本を身近に、親しいイメージを感じてくれるきっかけを、本屋さんのない地域にもつくっていきたくて。それが今の本だけでなく、未来の本につながることになると思っています」
ハリーさんは書店員経験がなかったこともあり、まずは双子のライオン堂 の竹田信弥さんによる本屋セミナーや、フラヌール書店 (当時はPebbles Books)の久禮亮太さんとBOOKSHOP LOVERの和氣正幸さんのイベントに参加するなど、情報収集につとめた。自由な発想で店を続ける先輩たちの姿に触れ、独立系書店巡りをする中で、「本屋をやってみたい」という思いが強くなっていった。
2年の時を経てようやく1歩踏み出したハリーさんは、2020年3月からオンラインで本を売り始め、5月には実家の一角、3畳ほどのスペースをハリ書房新潟本店にして、お客さんを招き入れることにした。車であちこちを訪ねる移動書店は2021年6月からスタートし、2022年8月にバックヤード店をオープンした。今後も形にこだわらず、一歩一歩いろいろな形で本を紹介することを思案していると語る。
「新潟本店は絵本が一番多くて、岩波ジュニア新書や、岩波文庫などが中心です。 『本屋になったら岩波文庫』とずっと思っていたので、品揃えを完成させていきたいなと」
そのこだわりはバックヤード店にも反映されていて、入口すぐの棚は、岩波文庫と岩波ジュニア新書がずらりと並んでいる。その手前には福祉関連や地域について考えることができる本が置かれ、小説や人文、社会問題をテーマにしたものなど、幅広い品揃えになっている。なかでもイギリスで生まれた仕掛け絵本「オロジーズ」シリーズは、とにかく豪華な装丁が特徴なので、子ども達の目に留まるように面陳にこだわっている。そして本の隙間には、何匹ものハリネズミくんたちが鎮座している。
「自分たちで買うだけでなく、機械書房の岸波龍さんなど友人や同業者から頂くこともあるので、ハリネズミグッズが増えつつあります。オランダの作家トーン・テレヘンの『ハリネズミの願い』という物語が店名の由来なのですが、他の動物と仲良くしたいのに勇気が出ず、ぐるぐる考え込む主人公のハリネズミが、なんだか自分に似ている気がして。おっかなびっくり前に進もうとする弱いものが、周りに助けられながら小さいままでも活躍できる社会を目指して、力強い小さな一歩を進もうとしています」
バックヤードのボックスごと移動書店に
現在の在庫は本店と併せて約1000冊あり、うち毎回300冊程度を車に積んで、移動書店に持って行っている。新潟や、パートナーの千尋さんの出身地である富山だけではなく、約1年間で千葉県の多古町や埼玉県上尾市、長野県白馬村など、30の場所に約40日間出向いたそうだ。
「関東甲信越の範囲で、イベント出店の依頼があれば参加することにしています。でも本は湿気に弱いので、雪の季節は南関東が中心ですね。たとえばお米のイベントなら米をテーマにしたもの、船のイベントなら船の本と、イベントごとにセレクトを変えています」
とはいえ月に数回、場合によっては毎週末ある移動書店のために本を積んでは降ろしを繰り返すのは、なかなかの労力が要る。そこでバックヤード店ではスチールラックに大きさの違う収納ボックスを置き、その中に本を並べることにしている。ボックスには取っ手がついているので、さっと持ち出せるようになっているのだ。
「スタッキングもできるので、なかなか便利なんですよ。先日は専修大学の学生さんが選んだ本を構内のカフェで紹介販売するイベントに協力したのですが、その際にこちらで本とボックスを用意して、貸し出したんです」
このアイデア、ぜひうちでも取り入れたい! 一体、どこでお買い求めに……? 北関東発祥のホームセンターで手に入れたそうで、私が実家に帰る度に寄っている場所だった。なんと灯台下暗し。しかしボックスごとサクッと移動できるとはいえ、本は集まるとなかなかの重さがある。腰とか、大丈夫なのだろうか?
「ゲームの筐体はもっと重かったので、腰で持たずに足で持つように鍛えられました。だから今のところは大丈夫です(笑)」
ハリーさん夫妻とハリネズミに囲まれた空間で話をしているうちに、ファンシーなグッズが嫌いではない私も、ずいぶん気持ちがほぐれてきた。ふとテーブルに目をやると、そこには2冊の大学ノートが。めくってみるとこれまでに移動書店とリアル店舗に来たお客さんたちが自由気ままに、思いをつづっている。大人も子どもも、皆楽しそうだ。そういえばハリネズミって、ヨーロッパでは出会うと幸福がつかめるラッキーアニマルって言われてるんだっけ。しかしハリーさんの本名って、針谷さんとか小張さんとかなのだろうか?
「本名は西山太郎です」。
2人に別れを告げて外に出ると、すっかり夜も暮れていた。移動書店はこれからも、あちこちに出没予定だそうだ。写真でしか見ていないけれど、ハリネズミの本屋は確かに、たくさんの人に幸せをもたらしているようだ。私もぜひ、あやかりに行かないと。
ハリーさんが生活にハリをとの思いで選ぶ、ササる3冊
●『ハリネズミの願い』トーン・テレヘン、長山さき訳(新潮社)
寝る前の読書におすすめ、優しい気持ちになれます。個性豊かな動物たちの不思議な交流を描いていて、お店の由来&店内のハリネズミたちを呼び寄せてくれた本でもあります。臆病な性格のハリネズミに、店主ハリーはとても共感しています。親子で一緒の読み聞かせにもちょうどよく、59のエピソードはどれも1ページ少々で読みやすい。あなたにもササル一冊になるといいな。
●『解放された世界』H.G.ウェルズ、浜野輝訳(岩波書店)
ウェルズの掘り出しもの名作SF! バックヤード店で月1回程度の頻度で行う「みんなで読む岩波文庫読書会」の課題本として選んだ1冊で、まだの人は是非とも読んで欲しいし、読んだら誰かと話したくなるに違いないと勝手に思っています。SF作品が世界に与える影響を考る、きっかけになっています。現代のSFも将来に大きな影響を与えていると思うと、文学と科学のつながりを強く感じます。
●『ドラゴン学』シリーズ(今人舎)
「オロジーズ」は1年中推していますが、今ならクリスマスプレゼントにもおすすめのシリーズです。季節を問わずに人気のドラゴン学は、大人から高校生、小学生もよく選んでいます。誰にとっても楽しい本で、本と距離ができている人も一目見て、手に取ってくれます。本を紙で持つ意味を感じられる、とにかく豪華な装丁。充実した情報と仕掛け謎を解くように慎重に読み進められる、まるでゲームのような本です。