その朝はいつもと違って寒かった。
夏も終わり支度を始め背中を見せ始めた、10月。
その中でひときわ寒い思いをしている男がいた。
久木祥一郎だ。
出版社に勤めている久木は今までの役職から大幅に格落ちしてしまう朝を迎えていた。
真面目に働いてきた久木にとっては、
右も左もないほどの喪失感を受けていた。
会社内では大きな引越しが各場所で行われている。
でもみんな笑顔だ。
きっと久木以外は昇格したのだろう。
肩からも背中からも感じる社員たちのスキップ引越しに久木のダンボールの荷物たちがより一層背中を丸める。
久木は出版業界に勤める38歳。
家族は妻と息子の3人。
若くして部長職に就いたものの、この一年成績をガタガタに低下させてしまい、止むなく左遷となった。
妻の由美子への言葉を
朝からずっと考えていた。
久木が新しく働くことになる部署は、比較的若い社員に囲まれていた。
前の部署では38歳の久木はピチピチ加減を爆発させていたが、この部署ではうっかり言葉なんかを間違えてしまえばおじさん送りだ。
久木の隣の席には、武藤海斗という男社員がいた。
「初めまして、今日からこの部署に移りました久木祥一郎です。よろしくお願いします。」
久木はあからさまな後輩と分かっても深々と頭を下げた。
「あ!久木さん。聞いています。僕はこの部署のリーダーを務めてる武藤海斗と申します。
久木さんのほうが全てご存知でしょうが、何かあればいつでも聞いてくださいね!」
武藤は名前の割にははっちゃけておらず、
いたって話しやすく、しっかりとした人間性だった。
この人間性に久木はなんだかホッとしたように荷物を机に広げはじめた。
「久木さんはおいくつなんですか?こんなこと言ったら生意気ですが、めちゃくちゃカッコいいですね。僕は今29歳です。」
荷物を整理する久木に無邪気に話しかけてきた武藤。
久木は"カッコいい"の一言になんだか照れてしまい顔を赤ながら、
「僕は38歳になりました。武藤くんからみたらおじさんだね。」
と不器用な笑い方をしながら答えた。
「おじさんだなんて、とんでもないです!
ぜひ今日は歓迎会みんなでさせてくださいね!」
明るく武藤は久木を誘った。
さっきまであんなに左遷で落ち込んでいた久木もだんだんと活力が漲っていた。
その夜同じ部署の者8人と久木の歓迎会が行われた。
照らしすぎな照明に、持って帰れちゃいそうなパイプ椅子、明らかに選び損ねるメニュー数な居酒屋だ。
それでも久木は武藤を始めとする同じ部署の仲間たちの気持ちが嬉しかった。
武藤が率先してビールを配り久木の宴会が始まった。
各々が酔い始めたころ、武藤の携帯に誰かから電話がはいった。
武藤は携帯を耳に当てながら店外にでた。
3〜4分後戻った武藤はほっぺをビールに酔わされ染めながら久木に言った。
「久木さん、僕の奥さん紹介してもいいですか?ちょうどそこの駅にいるみたいで。ぜひ久木さんにも会わせたいです!」
久木は嬉しそうに話した。
「あぁ、もちろん。嬉しいよ」
久木は断る理由はもちろんなく心から頷いた。
「わ〜武藤!また奥さん連れてくるのか!ほんと久木さん、武藤は奥さん大好きでいろんな場所連れてくるんですよ!まあ新婚だもんなっ!」
同じ部署で武藤と仲がいい、三枝がニヤニヤしながら久木に説明した。
「そうなんだ。それはいいことだ。家族は大切にしなくちゃな。」
久木は照れる武藤に向かって肩をトントンとたたき安心感を与えた。
「久木さん、ご家族は?」
「僕は妻と一人息子がいるよ。」
「そうなんですね!いいなぁ、お子さんいて。
僕も息子と石投げするのが夢なんですよ」
武藤は天井を見ながら夢を膨らました。
そして数分後、武藤の嫁がきた。
「こんばんは〜。久木さん初めまして、武藤の嫁の凛子と申します。」
久木が振り返ると、そこには小花模様の青いワンピースに長く透き通るような茶色い髪、くりっくりに見開いた目に、美しい鼻をした女性がいた。
久木は一瞬何が起きたかわからないほどに、
胸を刺された気分だった。
「初めまして。ひ、久木です」
明らかに言葉が喉に隠れる。
凛子は武藤より4つ年上の33歳だった。
大人びた対応、しなやかな仕草に、
武藤が惚れる理由を頭が理解していく。
久木はそこから武藤がどんな話をしていたか記憶はなかった。
酒に酔っていたからじゃない。
間違いなく久木は凛子に酔っていた。
久木は嫁以外に初めて抱く感情を心が理解していなかった。
凛子をじっと見つめている夜だった。
「ちょっと久木さん?!大丈夫ですか?凛子ずっと見てますけど!」
そんな武藤の声も今は立ち入り禁止だ。
宴会もお開き模様になる23時半ごろ。
武藤がトイレにいき、三枝が会計に立ち上がり、他の仲間たちも各々終電や二次会に検索を委ねている時、久木は突然凛子に話しかけた。
「今日はありがとうございました。もしよければご連絡を教えてもよろしいですか?」
思いもよらぬ発言に凛子は、え?という顔をしたがすぐさま思いもよらない言葉がきた。
「もちろんです。」
そうして久木と凛子は連絡先を誰も知らない数分間の間に交わらせた。
その夜から、久木と凛子とメールは火蓋を切って落とされた。
朝のおはようから始まり、ふたりは今まで生きてきた分をメールでたくさんやり取りをした。
時には長文になったり、時には電話をしたりと、お互い家庭さえなければ2人はめでたき美しい純愛だった。
そして2人の気持ちは止まることをやめずに、ある日夜ご飯の約束をした。
"今日は20時にレストランシェシェで待ち合わせしよう!楽しみにしてるよ"
"私もすごく楽しみだった!20時ね!また夜ね"
そんなやり取りをし、ふたりは仕事終わりレストランシェシェに足を歩かせた。
禁断のご飯会が始まったのだ。
「凛子!ここだよ!」
先についていたのは久木だった。
「お待たせ!お腹すいたね〜!」
ふたりは今日までいくつものやり取りを経てあっという間に敬語は消えていた。
「凛子に2人で会えるなんて夢みたいだよ」
久木は思わず動きに止めが効かずに、凛子の手を握っていた。
「私も。祥ちゃんに2人でこんな時間が来るなんてね」
ふたりは間違いなく惹かれあっていた。
そして恋をしていた。
「あ、もう23時だ。凛子といるとこんなに時間過ぎるのが早いんだね」
「わぁほんとだ。帰りたくないな。」
ふたりは頭の中に家庭のての字も浮かんでいなかったろう。
「ねぇ、祥ちゃん。12月10.11日一緒に日光にいかない?友達が急に行けなくなってね、祥ちゃんと行けたら嬉しいなって」
「え?泊まり?!いきたいな〜。金曜日、土曜日だから出張って言ったらいけるかも!いこう!会社には休みをもらうよ」
「ほんとに?やったー!」
久木はあっけなく有給を使う頭に変更し、
凛子との旅行に胸を弾ませきった。
そうしてふたりは12月の日光旅行を心まちにその日は終わった。
久木は帰宅するなり、嫁に12月10.11日の相談を早速した。
「直美、12月10.11日に会社の出張入っちゃってさ。日光に行かなきゃならなくなっちゃって、家に帰れないんだ。悪いな」
目も合わさずに、スーツから着替えながら声を出した。
「あぁ、そう。わかった。今年は異例の寒さらしいよ。風邪ひかないように気をつけてね。」
「大丈夫。たかが一泊だから。」
そういうと久木は早々とお風呂に入った。
嫁の直美は静かに久木の背中を見つめていた。
ついに12月10日がやってきた。
朝から東京をも寒い雪で覆われていた。
久木は朝から荷物をまとめて、家族3人で朝食を取っていた。
「パパ今日どっかいくのー?」
4歳の息子が久木に尋ねた。
「そうなんだぁ。一回寝たらもうパパは帰ってくるからね。ママとお利口さんにね。」
「はーい!」
息子のまっすぐな返事に、頭を優しく撫でた。
「じゃあ直美、一日空けるけどよろしくな。なにかあったら電話してね」
「わかった。寒いからダウン着て行きなよ。」
直美は朝食をゆっくり食べながら、久木の言動をしっかり見ていた。
そして久木は家を出た。
車をだし久木はまっすぐ凛子の家の最寄駅まで迎えに行った。
凛子はたっぷり幅を取ったマフラーを巻き、真っ白いダウンジャケットにモコモコのブーツを履いて待っていた。
「凛子お待たせ!寒かったでしょ?ごめんごめん」
「全然!今きたの。それにしても今日は寒いね、早く温泉はいろっ!」
「そうだね。吹雪く前に早く向かっちゃお!」
そうして久木と凛子は日光に向かった。
2人は日光の宿に無事着くと、
温泉に入りゆっくりと部屋で吹雪く雪を眺めた。
「祥ちゃん、すごい雪になっちゃったね。」
「だね。でも凛子と2人で旅行ができて嬉しいよ〜」
久木は甘えた声を発しながら凛子に抱きついた。
「ねえ、祥ちゃん、私たちこれから先どうなっていくのかな?」
「凛子はどうしたいの?俺は、正直すごく凛子に恋してる。このまま2人になれたら嬉しいけ...」
久木はまっすぐ凛子のことを見つめながら自分の胸を打ち明けた。
「嬉しいな。私もだよ。祥ちゃんともっと早く出会えていたらって思う」
2人は今の環境、今の家庭を頭に浮かべたように夢を語るしかなかった。
「でも凛子、とりあえず今日を楽しもう!せっかく一泊もできる大チャンスだよ!」
「そうだね、祥ちゃん!大好き!」
そうしてふたりはたっぷりと2人だけの夢時間を楽しんだ。
日も暮れ、辺りは暗くなった頃うっかり寝ていた2人は猛吹雪の音で起きた。
「凛子、外がすごい。こんなにさっきまで雪積もってなかったよね」
「うん。これ明日帰れる?」
「わからないな。帰れなかったらまずいよね。」
「でも仕方ないよね?とりあえず今のうちに私、旦那に連絡しておこうかな。」
そういうと凛子は今の現状を武藤に電話しはじめた。
その横で久木も直美にメールをいれておいた。
"直美ごめん!日光は東京以上に猛吹雪で明日帰れそうにない!また連絡するね。"
"はい。わかりました"
直美からはすぐに素っ気ない了解連絡がきた。
そしてふたりは予想通り大吹雪によって帰り道を奪われ、火曜日まで帰れなかった。
火曜日の朝ようやく雪が溶け灰色の道路が顔を出していた。
「あ、よかった。ようやく帰れそう。でもこんなに長くいれて幸せだったよ」
「ほんとだー。道路がようやく見えたね。祥ちゃんとの旅行幸せだったなあ。現実に戻らなくちゃいけないね...」
ふたりは苦しいほど抱きしめ合い、旅行の幕を閉じようとした。
そして久木は帰宅の状況を、直美にメールをいれた。
"今から帰ります!帰りは3時間後くらいかな。"
"はい。わかりました。"
まず凛子を迎えに行った最寄駅に降ろしてから、久木は自分の自宅に帰った。
家に着く直前に凛子から電話が3件かかってきていた。
「はいはーい。どうした凛子?」
久木は急いでかけ直すと、
凛子が明らかなる焦りながら声を出した。
「祥ちゃん!もしかして私たちのことがバレていたかも。帰ったら、海斗から電話がきて久木の家にいるからこいって...なんでだろう?海斗、多分祥ちゃんの家にいるはず。でもなんでバレたのかな」
「凛子落ち着いて。俺もう家の下ついたから、とりあえず俺だけはいってまた連絡するからね?もうもしバレたなら、本当のこと言って2人になろうよ」
久木は思わず先の理想未来を伝えてしまった。
凛子は小さく"うん"といいながら、
連絡を待つことに納得をした。
久木は明かりのついていない部屋にソッと帰った。
「ただいま〜」
と静かなる帰宅をお知らせした。
たが誰もおらずシンとしている。
ゆっくりとリビングに入ると、久木は驚いた。
そこには直美と海斗が食卓に横並びで座っていたのだ。
俯きながら、暗闇の中、確かに2人がいる。
「海斗くん?うちでなにしてるの?」
と伺うと、海斗が静かに立ち上がり久木に近付いてきた。
「久木さん。僕がどれだけ、どれだけ、凛子を愛しているか知っていますよね。そして直美さんがどれだけ久木さんを大切に思っていたか。あなたは人間の底辺だ。あなたは全ての人間を傷付けた。」
「海斗くん。ごめん。本当に申し訳ない。
でも本当に恋をしてしまったんだ。こんな場所で打ち明けるのもおかしな話だけど、ほんとに、僕たちはあいしあっ、、、、、、」
その時だった。
静かに武藤が久木に近付いてきたと思ったら腹に温かな血液が流れ出した。
「か、か、かいとくん、、、なんで」
「凛子がいなくなるくらいなら、全て壊してやる。」
そしてそのまま何度も、何度も、何度も、久木の腹を刺し直し続けた。
武藤の顔は血赤に染まり、それでも何かを失ったかのように無表情だった。
その時。
凛子が連絡のなさに異変を感じ、
久木の自宅に来たのだ。
「え、しょう、ちゃん?海斗なにしてるの?!」
凛子は顔色をさらに真っ青にしながら武藤の攻撃を止めようとした。
「お前。俺を裏切ったんだな、凛子。俺がどれだけ、どれだけ愛していたか、、、」
すると凛子は泣きながら、
謝り続けた。
「海斗、最後の勝手なわがままを聞いて。わたし祥ちゃんところに行きたいです」
凛子はその言葉を最後に、
旦那である武藤に無惨にもメッタ刺しにされ、
この世をあとにした。
2人の遅すぎた純愛は誰もが味方にならずに終わった。
ずっと食卓から動かなかった直美は武藤に静かに、"ありがとうございます"と言い放った。
そして札束が入った封筒を武藤に渡したのだ。
直美は知っていた。
久木と凛子が出会った日から全てを。
今日までの数ヶ月ずっと耐えた直美の海斗をも味方にした大復讐によって久木と凛子の恋はこの世では幕を閉じた。
きっと今頃、次の世の中でまた出会い恋をしていることだろう。
終
(編集部より)本当はこんな物語です!
出版社の要職から左遷され生きがいを見失っていた久木が、同僚の紹介で出会ったカルチャーセンターの講師・凜子。ともに家庭を持つ身ながら惹かれ合い、愛の情熱を燃やし続ける二人の物語は、1995年から日本経済新聞に連載され、禁断の不倫関係や激しい性描写が議論を呼びました。97年に発売された単行本が260万部を突破。映画化、ドラマ化もされ、同年の流行語大賞に「失楽園」が選ばれるなどセンセーションを巻き起こしました。
タイトルが暗示する通り、久木と凜子の関係にはやがて破綻が訪れます。原作は二人が自ら終末を選び取って静かな終わりを迎えますが、滝沢失楽園はウキウキルンルンで不倫旅行に出かけて帰ってきた二人を、映画「パラサイト」のような予期せぬ破滅が待っています。能天気な二人に襲いかかる断末魔が、グロテスクさを際立たせています。
【好書好日の記事から】