1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. 抽象の先に 静かに強く、現れる本質 古川日出男〈朝日新聞文芸時評1月26日〉

抽象の先に 静かに強く、現れる本質 古川日出男〈朝日新聞文芸時評1月26日〉

絵・黒田潔

 民族間の紛争なり国家間の戦争なりが日本とは離れた土地で行われている際に、自分たちは「あちらが正しい」とか「どちらも正しい」とか「私たちには何ができるのか」とか「私たちには何もできない」とか懸命に考え、また嘆きもする。そうした紛争、戦争に肉迫(にくはく)するために、たとえば現地取材の貴重な記録物が存在し、また緻密(ちみつ)な調査に裏づけられた文学作品も産まれうる。が、そうしたディテールをすべて捨象して、本質のみをポンと呈示(ていじ)する小説があったらどう感じるか? 自分はただただ感嘆する。それが岡本学「X/Y―Z」(「群像」二月号)で、このタイトルにあるXもYもZも作中に人名として登場している――使用されている――ことも驚異的だが、本質の抽出とは要するに固有名を不要にする作業だ。だから人物の名前はアルファベットでよい。作品内には二つの世界があって、その二つの世界とは個別のゲームで、それぞれのプレーヤーは単にコンピュータと対戦していると思っている。が、実際には二つのゲーム=世界は“相乗り”状態になっていて、これはXとYの戦争を成り立たせている。このように世界群を連動させたのはゲーム制作者のZである。だが、Xが現実世界の地名(たとえば日野市の高幡)をゲーム内の世界に投じたことで、“本質”が抜き出されたはずの作品は日本国内のこの現実から国外のその戦争群を眺めさせる。そして「人間とはなんなのか」を理解させる。しかも、静謐(せいひつ)な雰囲気の内に。

 驚異的なのは閻連科(えんれんか)『中国のはなし』(飯塚容訳、河出書房新社)も同様で、ここでは「豊かな中国」と「その中国国内の貧しい田舎町」と「中国よりも豊かなアメリカ」が図式的に起(た)ちあがる。いわば抽象である。それでは田舎町でさらに下層のランクを生きている一家は何を行うか? 家族内で憎しみあう。しかし息子は父親に殺意を抱くのだけれども父親は妻を殺そうと思っていて、その妻は息子を殺したがっているというズレが、最終的には“救済”の一場面にドラマを着地させる。太い鑿(のみ)で人物と物語が彫られたような、これも感嘆するしかない小説である。

     ◇

 その『中国のはなし』が住まいとしての“家”を建てんとする物語で、かつ家族のそれであったように、ジュリア・カミニート『甘くない湖水』(越前貴美子訳、早川書房)も“家”と家族が作品の主題の裏側に貼りついている。窮乏する一家に生まれて、精神的には異父兄とだけ結ばれているようなヒロインが、湖畔の町のその“家”で、「誰を信用したらよいのか」という生存術を身につけつつ生きる。ここではヒロインよりも世界そのもののほうが傷つきやすい印象があって、それはたぶん「思春期」というものの本質的な抽象化だ。ある種の暴力性が爆発する瞬間、この語り手は読者を圧倒的に共感させる。なんたる強度だろう。

 石沢麻依「木偏の母」(「すばる」二月号)は母子関係の本質というのを寓話(ぐうわ)の形で呈示せんとする。実際には「ドイツ語で書かれた寓話群を日本語に訳そうとする」擬似(ぎじ)母子の、かなり魅惑度の高い幻想物語が描かれている。アルファベットと漢字が並置されて、人間の身体と書かれた言語(文字)がパラレルに視認される際に、文化圏を越えた「家族」のエッセンスは確かに屹立(きつりつ)する。世界そのものが二分裂するかのごとき終幕も相当に静かで、強い。

     ◇

 寓意や強い精神性、そして本質の抽出という作業は、そのまま批評行為に通ずる。今月の驚きは安藤礼二の評論集『死者たちへの捧げもの』(青土社)にもあった。書名にある死者たちとは、大江健三郎や三島由紀夫、古井由吉といった亡き文学者たちであり、同じように亡き建築家となった磯崎新である。安藤はひたすら、対象作品や対象となる人物、その人物の思想を評しながら、それらを太い「物語」に吸収させようとする。その「物語」というのは折口信夫の古代学がマトリックス(基盤)となっていて、自分としては、本書を読みながら「この作者の批評行為とは、文学作品から文字を超えたものを炙(あぶ)り出し、いわば、文字に貼りついている“霊”を捕獲しようとしているようだ」と感じた。なかんずく磯崎新に言及した第五章の前半は、作者は「ドキュメント風にまとめ」たと語るのだけれども、ほぼ小説を読んでいるような、読書としての充実がある。いや、むしろ、こうした行動しつつ思考する批評家の営為は、その営為じたいが小説なのだ。=朝日新聞2023年1月26日掲載