小説は僕の松葉づえ
大阪在住の大原さんは飛行機に乗ってやってきた。恥ずかしそうに差し出した名刺には「小説家 大原鉄平」とあった。
「もういったれ、と思って」
今回受賞するまでに26年、トータルで90作もの小説を書いたと聞くと、どうぞいっちゃってください、という気持ちになる。書き始めたのは21、22歳のころ。
「18歳くらいから表現欲が出てきて、色々手を出したんですよ。漫画描いたり、バンドやったり。でも、漫画だとイメージ通りの絵が描けない、ギターもピアノも練習が要る。それで小説を書いてみたら、自分のやりたいことがめちゃくちゃ簡単にできた。小説って、すごい自分の自由になるんや、って。そこからずっと書いてきました」
以降、小説メインの人生を送ってきたという。
「就職もまともにしてない。とにかく書く時間を作れる仕事ってことを主眼に、ウェブデザイナーとかアプリ開発とか、企業のPV制作とか、いろいろしました。小説の為に東京行ったり、逆に地元に戻ったり。今の自営業を選んだのも時間を自分の思う通りに使えるからです」
一度、「すばる」で3次通過したこともあったが、その前後の応募作では1次落ち。「小説の結果って結局こっちの努力だけで決まるものではないなって思いました。評価はあくまで読む人のもの。だから、落選しても落ち込まない。寝たら忘れて、翌日には別のん書いてます」
それにしたって26年は長い。どうして書き続けられたのだろう。
「小説って松葉づえみたいなもんやと思うんです。小説を書く人って単に楽しいから書くという人もいるけど、何かしらの傷があって、書くことでなんとか立ってるという人もいる。そういう人にとっては、才能がないからやめるとかいうもんじゃない。傷がある限り書く。賞とれんから書くのやめたって人も、ほんまは賞は関係なくて、傷が癒えて、書く必要がなくなったから自然と筆を置いたのかもしれない。それって全然挫折じゃなくて、むしろめでたいことなのかも、とすら思うんです。僕はまだヨロヨロしていて、だから書き続けてますけど」
子どもが生まれて世界がわかった
そして「林芙美子文学賞」を射止めた。なにがこれまでと違ったんだと思いますか?
「僕、それまで全然、他の人の受賞作を読まなかったんですよ。今思えば完全な間違いなんですけど、自分の小説が一番やから、他の人のを読んだら負けやって思ってた。芥川賞作品もほとんど読んだことありません。アホですよね。ここ3年でやっと間違いに気づいて、いろいろ読みだしたら、清さんもnoteで書いてらっしゃいましたけど、読めない作品が多くて。20年前の僕が知ってた世界とは変わってた。僕としては異端のつもりで書いたことが、今では普通に受け止められる。ああ、これは状況が変わっているなと。その頃、五大文芸誌に送った自信作がパンパンと連続で落ちて、これは賞との相性が悪いのかもって思ったときに見つけたのが、この賞。受賞作が載る『TRIPPER』は、ごりごりの純文だけじゃなくて、エンタメも載せていて以前から好感を持っていました」
26年間ダメだったものが、応募先を変えたら1作目で受賞。相性説、確かにあるかも。
「もうひとつは、40代のおっさんになったからだと思います。小説を書くときに必要なものは3つ。素材と技術と骨格。才能ある人ってのは最初からその3つが備わってる。僕は才能はないけど、その3つって生きてたら蓄積するものやと思うんです。たとえばパワハラ受けて退職したりしたら、それは素材になるし、書けば書くほど技術は上がっていく。そして、僕の場合は子どもが生まれてから小説の骨格がピタリと決められるようになったんです」
今日はその話を聞きたかったんです。じつは、これまで取材してきた新人賞受賞者のなかで、大原さんが初めての〈子持ち〉なんですよ。
「そうなんですか! あくまで僕の場合ですけど、僕は子どもが生まれて世界が180度ひっくり返りました。べつに露骨に子どもたちのことを書くとか、テーマにするとかじゃないですよ。でも、それまでふわふわしていた骨格、小説の風合いみたいなのがはっきり形にできるようになったんです」
それは、なぜなんでしょう。
「子どもの存在を通して、もう一回自分を発見するからだと思います。世界の正体がわかった。僕が30代の頃に書いた小説で賞とれなかったのも、今ならうなずけます。今の、この子持ちの、47歳の自分だからこの作品が書けたんだと思います」
大阪の古民家の「ふつうの小説」
受賞作「森は盗む」はたった10日で書き上げたそうですね。
「僕、プロットを立てないんです。今回の『森は盗む』だったら、まず最初に、おっさんの話書きたいなって思ったんですよね。そしたらその1秒後に〈よっちゃん〉って単語が浮かんできて。よっちゃんってなんや、て考えていったら、どうも職人ぽいなあと。僕の40何年間のどっかにこのよっちゃんという素材があったんでしょうね。それで、よっちゃんを一人称で書くと、おっさんがおっさんを書くことになってしんどいな、と。じゃあ女性の視点で書こう。そうすると、〈ふたりの子ども〉〈檻〉っていう単語も浮かんできて、そこまでパーツがそろったら3か月くらい寝かしておく。そしたら、ある日化学反応が起こって、一気に書き出せるんです。僕が書いてるんじゃなくて、物語に要請されて書かされている。途中に夜景のシーンが出てくるんですけど、書き終えてはじめて、あ、だからあのとき夜景書いたんか、ってわかる。そういう奇跡の瞬間がいちばん興奮します」
選評では、ほかの最終候補作が幻想的であるのに対し、唯一「ふつうの小説」だと評価されていました。
「以前は幻想的、観念的なものも書いていたんです。幻の犬と一緒に暮らしている話とか。でも、たぶんそういうのって、都市的なものなんですよ。大阪の郊外に古民家を買って暮らすようになってから、暑いとか寒いとか、人づきあいとか、起きることがぜんぶ非常に肉体的。SNSで交わされるような議論より、生身の人間に割く時間の方が多い。今日も空港までの道で、変な人にからまれてカーチェイスになりかけましたからね。雑音ばっかりで観念的になられへん(笑)」
でも正直、純文学の世界では観念的なものの方がウケがいいように思います。
「新人賞に限っていえばそうかも知れませんが、社会が要求するものは千差万別。そう信じて、自分に書けるものを書いてきました。その上で、相性を見るために応募先を変えてみるとか、技術を磨くとか、やれることはやってきたつもりです。あと、今回の受賞作は賞を意識して工夫もしてみました」
え、教えてください!
「新人賞には、下読みさん、編集さん、選考委員さんの3つのレイヤーがあるじゃないですか。もちろん皆さんそれぞれ良い作品を選ぼうとされると思うんですが、立場が違うから見るところも若干違ってくると思っていて。これまで自分の好きな世界を好きなように書いてきたんですが、ちょっと冷静になって、一つの好みや読み方だけじゃなく、複層的な読み方にも耐えうるようなものを、という意識で書いてみました。その意識の一つの表れが、仕事という社会的なものを書いたというところ。僕、たぶん初めて自分の仕事に関する話を小説に使いました」
「小説家」を名乗る日
大原さんにとって「小説家になる」とは。
「小説家か否かって、書いた小説が流通しているかどうかやと思います。今回の文學界新人賞をとった旗原理沙子さんが、去年、文フリ(文学フリマ)に出るというので会いに行ったんです。旗原さんはこれまで最終選考で落ちた作品をAmazonでセルフ出版していたり、文フリで売っていたり、書店のトークイベントに呼ばれたりしていて。もうそれって作家やんって思うんですよ。それも30代、40代の人の〈小説家のなり方〉の一つの方法なんちゃうかな」
さきほど、大原さんは「小説は松葉づえ」とおっしゃいました。そのいわば私的なものを公募に出し、〈流通させたい〉と思うのはなぜですか。
「小説って実体がない。建築だったら、建てたら否が応にも存在が認められるけれど、小説は誰にも読まれなければないのと同じ。自分の作ったものを社会の中に存在させたいんだと思います。尊敬する美術家の先輩がいて、〈傷を受けた者って、それを社会に還元しようとする本能的な気持ちがあるよね〉って話していたんです。僕も小説に救われてきたから、恩返ししたいという気持ちもあります」
その先輩には、24、5歳のくすぶっているときに、「とにかく今から小説家って名乗れ」ともアドバイスされたそう。
「今までずっと、どうしても名乗れませんでした。でも、今回の受賞をある人に知らせて、『これでやっと小説家って名乗れるんですかね』て言ったら、『俺はずっと友達にお前のこと〈小説家〉って紹介してきたで』って言われたんです。そう思ってくれる人がいるんやったら、覚悟決めなあかん。今でもまだドキドキしながら名刺出してますけど、これからも小説を書いて、なんとか流通させて、そしてやっぱり、しんどい人の役に立ちたいなって思います」
【次回予告】次回は、今回の記事にも登場した、第129回文學界新人賞受賞の旗原理沙子さんにインタビュー予定。