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水底に沈んだ情景 真の「人間の悲喜劇」 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年6月〉

絵・黒田潔

 ポール・オースターの追悼記事が複数の文芸誌に載る。一人の外国人作家のそうした記事が出る時、それはその人の著作群が日本語で広く、深く読まれた事実を証す。かつ日本文学を作りもしたのだ。オースター作品を最も多く訳出した柴田元幸は「新潮」七月号で九段理江と対談しており、そこでは九段が的確に「自分の文学に(オースターから)与えられた影響」を語っているが、この対談ページ後の柴田の追悼文が“悼む”という言葉の真の意味合いを伝えもする。誰かの死に折り合いがつけられないという心情のさなかにある者は皆、相手を悼みつづけている。そして一人の作家がその死後に世界に遺(のこ)した著作群は、自分たち読者にまるで湖や海の底に沈んでいる膨大で大切な何事か、を想(おも)わせる。

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 海外の文学が日本語に訳されればそれは本邦の明日の、未来の文学を形成すると確信するからこそ自分はこの時評で翻訳にも目を配っている。シルヴィー・ジェルマン『小さくも重要ないくつもの場面』(岩坂悦子訳、白水社)は一人の人間のその生と死もまた、作家たちの著作群と同様、かけがえのない情景をいっぱい湖や海の底に沈めているのに等しいのだと全篇(ぜんぺん)を通して伝える。一歳の誕生日を迎える前の自分と父親とを捨て、その三年後に溺死(できし)してしまった母親を持った主人公は、「海は母の墓だ」と感じているし、生まれる前の自分はどこにいたのかと自問もする。生まれる前は胎内にいたのだ、と回答するならば彼女は羊水の中にいたのだから「水の内側にいた」となる。そこから出て、自分の呼称ではない名前(と彼女には感じられる戸籍上の一番めの名前)で社会に吸収されて、しかしその名前こそは「自分を捨てた母親が授けた名前だった」と知り、彼女はたぶん海の底のほうにまで初めて手をのばす。実際、ダム湖の水底に沈んだある土地がこの作品の叙情的な鍵にもなっている。

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 川上弘美『明日、晴れますように』(朝日新聞出版)は十二年前に刊行された『七夜物語』の続篇だが、むしろ独立した一つの作品として読まれるのがいいと自分は個人的に思った。というのもここでは物語の大部分が二〇一〇年に展開していて、それは当然ながら「東日本大震災の前年」なのであって、自分たちはいま現在震災後の日本社会を生きているわけだが、これはダム湖にも似ているのだなと体感してしまう。何かが深く沈められ、その水底には汚れのない感性の十歳の子供たちがいる。この子供たちの生きる“世界”をきちんと覗(のぞ)ける。最後に読者は感じるはずだ、後世に何事かを伝えるためには「大人から子供へ」との発想では駄目だ、と。いまは大人になってしまった人間の中にいる“かつての子供”から現在の子供へと受け渡さなければならない。この「子供から子供へ」の連なりこそが真の希望だ。

 物語がいずれ水没する土地を舞台に回っているのだと序章で告げるのがシェリー・リード『川が流れるように』(桑原洋子訳、早川書房)で、しかしこの作品の書きぶりはシルヴィー・ジェルマンの『小さくも重要ないくつもの場面』と好対照である。両作品とも一般的ではない形態の家族が出るが、ここでは家族に悲劇をもたらす“運命”は物語の前進力となっている。だからこそ「次はどうなる?」と読ませ、いわゆるエンターテインメント的な力に満ちると言えるが、ジャンルはどうでもよい。大事なのは、ダム湖の開発はそこに暮らす住人たちを追いやる、だが、それ以前にアメリカの白人たちは先住民たちをその土地から追い出しているとの著者の視線の存在だ。被害者の物語を創り、また享受するのはたやすい。しかし、被害者もまた加害者である、との視点にこそ真の価値はあると自分は考える。

 町田康「男花嫁」(「文学界」七月号)はいわゆる俠客(きょうかく)の世界をこの令和の日本にそのまま沈める。具体的には幕末の博徒が参照される。すると当然ながら皮肉な笑いが全篇に満ちることになるが、この時読者に観察されるコミュニティとは古臭い「ヤクザ風の世界」であるのと同時に、読者自身がいま所属している二〇二〇年代の日本のここ、この社会である。それは被害者と加害者の転換に通ずる。そして重要なのは人間という現代社会の支配的存在を超えた存在たちが堀や川の中から、いわば水底から現われる点で、それらは一尊の地蔵であり一獣のカッパである。ここでは「人間の悲喜劇」が水の底から見上げられて、嗤(わら)われている。=朝日新聞2024年6月28日掲載