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身体の記憶 柴崎友香

 少し前に引っ越しをした。

 東京に移ってから二十年で五度目の引っ越しになるが、ここ数年で本が加速度的に増えてしまったので、大変だろうなと予期していた以上に大変だった。しばらくは積み上がった段ボール箱の隙間での生活になるとは思っていたものの、引っ越し作業で体力を使い果たして体調を崩し、隙間生活が長引いた。

 その前に住んでいた家とそれほど広さも間取りも変わらないのだが、特に最初の数日は照明のスイッチの位置に戸惑った。帰宅して手を壁に伸ばす。あれ? と空振りする。ああ、そうか、こっち側だったっけ。反対側を手探りする。

 室内ドアのノブの位置が前とは左右逆だったり、トイレでも流すレバーの位置やタオルを掛けてあるところが違って、空振りを繰り返した。ポストのダイヤル式の鍵も、つい今までの数字に合わせてしまう。

 あれ?となるたびに、普段こんなにも無意識に手を動かしていたのか、と発見する気持ちになった。前の家に住んでいたのは五年で、その間に毎日繰り返す動作が習慣になっていた。身体が家の空間を記憶していたのだなあ、としみじみした。

 だんだんと新しい位置を覚え、一、二週間経つと空振りは減った。一か月以上経つが、新しい家のあれこれの位置はまだ身体に習慣化されてはいない。このへん、と伸ばした手がスイッチには届かなくて、目で見て確認する。ポストのダイヤルも番号は覚えたが、まだときどき逆向きに回してしまう。なぜかいつも消し忘れてしまう照明があって、スイッチの位置のせいだろうか。

 体調も回復したし、部屋の中で壁を作っていた段ボール箱もようやく開けた。中身が床に積み上がって、片づいたとは言い難いが、この部屋はこのくらいの空間だとやっと把握できるようになった。

 スイッチの位置を間違えることはなくなり、前の家は気に入っていたからその感覚が自分から消えていくのは少しさびしい。=朝日新聞2024年07月24日掲載