九月の末、ようやく冷房なしで眠れるようになり、長かった夏の終わりにほっとしていた晩のことだった。なにか騒々しい夢の中にいた。と、隣で寝ていた夫が起きあがり、夢かと思っていた音が現実のものであることを知った。時計の短針は四時を指している。夜と朝の境目の暗い時間だった。
マンションの上の階から声がする。叫んでいる。ちょうど海外旅行から帰ってきたところだったので、それが日本語かどうか、すぐにはわからなかった。耳を澄ます内、日本語として聞き取れるようになってきた。男性が「てめえ」とか「でていけ」とか喚(わめ)いている。もっと物騒なことも言っていた。酒に酔っているようで呂律(ろれつ)がまわっていない。叫び声の合間になにかが倒れたり壊れたりする音が響く。発言内容があまりに穏やかでないので、通報するべきか夫と相談した。女性の言い返す声がするのと、悲鳴が聞こえてこないことから様子を見ようと判断し、再びベッドに横たわった。
酔った喚き声はしばらく続いた。ずっと口汚く、そばにいる女性を罵(ののし)っていた。睡眠を阻害されたことに怒りを覚えたが、嗄(か)れて、ときどき裏返る喚き声を聞いている内に哀(かな)しい気持ちになってきた。日が昇り、上階はやっと静かになったが、酔った罵り声は一日、耳に残っていた。
つらいことや嫌なことがあったのかもしれない。けれど、人は泥酔したら身近な人にあんな風に喚くのか、あんなことを口走るのか、と考え込んでしまった。酒で正体をなくすとか、酔ったら本性がでるとか云(い)われるが、どちらの姿が本当かなど本人も周りもわからない気がする。
確かなのは、放たれてしまった言葉で、誰かの耳に届いてしまったらもう消えない。まだ暗い朝にぶつけられた言葉を、その剣幕を、身近な人は忘れてくれるだろうか。
秋の涼しい夜道をほろ酔いで歩くのが好きだと話していた矢先の出来事だったので、酒にはくれぐれも気をつけようと自戒を込めて思った。=朝日新聞2024年10月9日掲載