純文学の入り口は学校のプリント
新人賞受賞者のプロフィールを見るとき、まず年齢を確認してしまう。群像新人文学賞を受賞した豊永浩平さんは弱冠21歳。今も琉球大学に通い、卒論に追われているという現役の大学生だ。今年42歳の私にとっては自分の子どもであってもおかしくない年齢で、くじけそうになる。きっとZ世代ならではの瑞々しい感性が爆発した、中年では逆立ちしたって真似のできない小説を書くんだろう……。
ところが、受賞作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読んで豊永さんへの嫉妬は吹き飛んだ。この小説、作者の若さはほとんど関係ない。じつに堂に入った重厚な物語なのだ。
小説との出会いは中学生のとき。
「入学時に村上春樹の『沈黙』や開高健の『パニック』といった短編のプリントが配られたんです。そこから小説の面白さを知り、授業で習った夏目漱石や芥川龍之介、三島由紀夫などを図書館で借りて読むようになりました」
読むうちに自分も書いてみたくなった。
「はじめて書いたのは、ミステリー。探偵役と助手役がいて、氷のついたラケットで人を殴ってその氷が溶けると指紋がなくなって……という王道ものです。思いついて書き出しはするものの、結局一編も完成させられませんでした」
転機となったのは、高校生となり、中上健次の「紀州熊野サーガ」と呼ばれる土着的な作品世界に触れたこと。
「それまではどんな映画やアニメも、鉄道が走っていたり、雪が降ったりしていて沖縄とは違う場所の物語で距離があったんです。中上さんの土地を題材にした作品と出会い、自分の原風景を小説に書きたいと思うようになりました。同じくフォーク(folk=民族的)な作品を書く大江健三郎さんにもがっつりハマりました」
「沖縄」を自分に紐づける
小説を応募し始めたのは16、17歳の頃。未完成のまま送り付けることもあって、当初は箸にも棒にもかからなかった。その後、琉球大学人文社会学部に入学し、近代文学を研究するようになる。大学2年のときに文藝賞に送った作品が3次通過。大学での学びが役に立ったのだろうか。
「それはあると思います。最初の間口が漱石とか芥川とか大家の人たちだったので、書くものもやたら文豪風で格式ばったものだったのですが、大学の授業で保坂和志さんの『書きあぐねている人のための小説入門』や大江さんの『小説の方法』など創作論に触れ、もっと自由に色々やっていいんだ、と楽しんで書けるようになりました」
翌年に書いたのが受賞作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』。沖縄を舞台に現代と過去の14の語りが交差する作品だ。
「僕は先祖が沖縄で百姓をやっていたような、まさに土着の人間。沖縄には戦争を含むさまざまな歴史の出来事があり、それにぶち当たって翻弄された先祖たちがいて、その先に僕がいるわけだけれど、今の自分にとってその実感は薄い。沖縄の抱えてきたものを自分にどう紐づけていいかわからないんです。ここに向き合って、どうにかしないと、この先小説を書き続けられない、と思いました。沖縄はヒップホップやラップなど新しいカルチャーが出てくる一方、普通にまだ戦跡が建っていて、基地もあって。そのまぜこぜが僕の原風景。それを出発点にしないと、この先書くものが曖昧になるんじゃないかと」
戦争を茶化す世代の中で
『月ぬ走いや、馬ぬ走い』では沖縄戦や安保闘争も描かれる。体験していない重い史実を書くのに葛藤やプレッシャーはなかったのだろうか。
「どういうスタンスで書けばいいのか、というのは一番悩みました。この14個の断片の裏側に自分がいて、配置を並べ直したり、キャラを登場させているわけなんで、操作したい思いと操作しちゃいけないという思いがせめぎ合って、そのちょうど中間を目指して書くのが大変でした」
豊永さん自身は戦争についてどう考えているのだろう。
「年に一度は平和学習の機会があって、戦争を経験したおばあの話とか、戦争体験を収集する人の話を聞いてきました。その悲惨さに心を持っていかれましたが、不良っぽい子たちの飽きちゃったり茶化したりする態度にもわかる部分はあって。そのふたつのスタンスが書く間にもせめぎ合っていました。作中に、高校生たちが肝試しにガマ(防空壕)に入り、軍刀を盗んできちゃうシーンがあるのですが、それなんか、モロにそのせめぎあいが出たなって思います」
戦争経験者の思いと、若者の白けた気持ちと、両方の気持ちがわかる豊永さんが、がっつり小説で戦争を書いてみて、今感じていることとは。
「この小説は〈恩賜の軍刀〉という、いわば戦争の象徴が次の時代へと持ち越されていって、最終的にまた悪いことが起こってしまう。ラストは希望の持てる終わらせ方にしようと思って、今でもそのラストでよかったと思っているけれど、実家に帰ると、おばあちゃんがウクライナ戦争や沖縄の米兵の事件のニュースを本当に悲しそうな顔をして見ているんです。だから、現実世界の希望については疑う気持ちがあります」
豊永さんの受賞の言葉に「テクストでの魂込め(マブイグミ)とでも呼ぶべきところが、ぼくの目標です」とありました。沖縄では驚いたときや悩んだときに魂が体から抜け出すと考えられ、それを元に戻す民間療法を「マブイグミ」というそうですが、この受賞の言葉の意味をあらためて聞かせてください。
「この小説を書くときに、ステレオタイプな見方を外したいと思いました。たとえば差別してくるアメリカ人は追い出してやろう、とか、バイクを乗り回したり騒いだりする若い子たちって迷惑だよね、とか。でも『結局こういう奴らだよね』ってぶん投げちゃったら前に進まないと思うんです。わかりやすい枠組みをひとつひとつ分解して、新しい繋ぎ方をして、こういう見方もできるんじゃない?って提示したかった。それをマブイグミと表現しました」
Xで下読みを募集
受賞の知らせを受けたときの状況は。
「〇時に当落の連絡があります、というのは聞いていたので、その日は予定を入れずに一人、車の中で電話を待っていました。言われた時間から10分、15分と過ぎていき、あ、これは落ちたんだなと思って帰ろうとしたところで電話が来て、ビックリしました。最初はめちゃくちゃ嬉しかったんですが、5分くらい経って、そういえばこれで小説家になっちゃったんだ、やっていけるのかな、本当に小説家になったのかな、と実感がありませんでした」
振り返ってみて、なぜこの作品は受賞できたと思いますか。
「腰を据えてやれたからかなと思います。14の断片から成る本作ですが、最初の、幼馴染みのかなちゃんに告白しようとする幼い〈ぼく〉を書いたあとは、2~3か月ひたすら資料を探していました。それぞれの語りにふさわしい文体を探して、軍人さんだったら、当時発布されていた軍の資料を参考にしたり。先行する文学作品を自分なりに転換して、エピソードに組み込んだりもしました。そのうちに話もどんどん膨らんでいって、改行がないことをよく質問されるのですが、あれは制限枚数の250枚に収めるための苦肉の策だったんです(笑)」
終始、落ち着いた語り口の豊永さん。小説家になりたい人へのアドバイスを聞くと、はじめて若者らしい顔がのぞいた。
「僕はXで下読みさんを募集して、読んでもらったのが自信になりました。もともとは周りに文芸好きがいなくて、Xで〈#名刺代わりの小説10選〉というハッシュタグをつけて投稿したら、みんなフォローしてくれて、文芸仲間がたくさんできたんです。日比野コレコさんとは彼女のデビュー前からXで知り合いでした。同年代の日比野さんが18歳で受賞した時は、自分もその次の列に並ぼう、とやる気になりました。『月ぬ走いや、馬ぬ走い』は10人くらいに読んでもらったかな。自分が書いたものがちゃんと成立している、読めるものになっている、ということに手ごたえを感じました。下読み募集、おすすめですよ」
そしてもう一つ。
「この作品は、〈沖縄に生まれた自分〉というものを深掘りしていたら、ちがう人の語りが入ってきて物語の鉱脈を掘り当てた、という感じがあります。自分の来歴とか好きなこと、楽しいことを一回まるっと再検討してみたら、なにかいい題材が見つかるかもしれません」
この先も沖縄を書き続けますか。
「とくに決めていませんが、沖縄について書きたいことはまだあります。そして3~4作目で他の土地のことも書きたい。そのためにも大学を卒業したら、上京するつもりです」
『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を書くことは自分の根っこを洗い出す作業だった、と言う。この若木はすくすくとどこまでも伸びていくのだろう。
私も自分の根っこをよく見てみよう。来歴を辿り、原風景を捉え、根っこを洗い出せたなら、私もまだまだ新しくなれる気がした。
【次回予告】次回は、第61回文藝賞を受賞した松田いりのさんにインタビュー予定。