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朝日・毎日「文芸時評」が選ぶ2024年の5作 作家・古川日出男さん×批評家・大澤聡さん対談

古川日出男さん(左)と大澤聡さん=東京都千代田区

■古川日出男さんの5選

  • ハン・ガン「別れを告げない」(斎藤真理子訳、白水社)
  • 豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(講談社)
  • 町屋良平「生きる演技」(河出書房新社)
  • 木村紅美「熊はどこにいるの」(文芸秋号)
  • 川上弘美「くぐる」(文学界9月号) 

■大澤聡さんの5選

  • 豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(講談社)
  • 野崎まど「小説」(講談社)
  • 木村紅美「熊はどこにいるの」(文芸秋号)
  • 坂上秋成「泥の香り」(文学界11月号)
  • 山下紘加「可及的に、すみやかに」(中央公論新社)

歴史的な痛みを引き受けたハン・ガン作品

 古川 韓国のハン・ガンさんがノーベル文学賞を受賞して、アジア人の女性で初だと話題になりました。でも、はっきり言えばそんな枠組みはどうでもいい。僕がこの1年間に読んだ単行本のなかで、ずっと体の記憶に残り続けていたのが「別れを告げない」でした。ハン・ガンさんはこの作品で済州島の事件を書くことによって歴史的な痛みを引き受けたと思いますが、それを読んだ僕の体にまで痛みや苦しさが移ってしまった。そういう力を持った作品がノーベル文学賞に値するのは、すごくまっとうなことだと思います。

 大澤 ハン・ガンさんは朝鮮半島における暴力の問題を意欲的に書いています。身体的な痛みの描写は、目を背けたくなるほどのリアリティーがあります。

 古川 この作品にはインコが出てきます。人間は二つの目で一つの世界を見ているけれども、作中のインコは二つの目で二つの世界を見ている。だから、片方に生きているひと、片方に死んでいるひとが同時に見える。こうして死者と生者、過去と現在がつながるかたちを持ってきたところが、僕は「別れを告げない」の核心なのかなと思いました。

 大澤 私たちは両目で同じものを見ているように錯覚しているんですよね。哲学者のスラヴォイ・ジジェクが「パララックス(視差)」をキーワードにしたことがありますが、そのズレこそを見る。今回2人とも挙げた豊永浩平さんの「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走い」も、沖縄の近現代史を一気に駆け抜ける作品です。共通するのは、西洋からもたらされた近代が東アジアに突きつける「暴力」です。あらゆるものを暴力的に分断するのが近代ですが、その分けられた両方を見る。近代は乗り越えたり、終わったりと言われてきたわけだけれども、実際にそれを作品のレベルで体現できた作家は限られます。いよいよというこのタイミングで、近現代史のなかにとり残されたままの出来事をモチーフにする作品が今年は集中しました。

限界突破、小説を再起動する試み

 古川 近代の線の引き方は平面的だと思うんです。平面に、たとえば38度線を引く。一方で豊永さんの作品は、土地の歴史を掘る。なぜなら我々の上には近代が覆いかぶさっているから、まっすぐ掘れば同じ場所でもちがうものが立ち上がってくる。しかも真下に掘ったら上に、空に抜けていった。だからパウル・クレーの天使が出てくるんです。この作品は谷川俊太郎さんの「クレーの天使」を引用して終わる。谷川さんは「二十億光年の孤独」という詩集で戦後日本の現代詩を突然ひとりで変えちゃった。偶然ですけれど、谷川さんが亡くなった年に谷川さんの詩で終わる作品が出たということで、やっぱり真下を掘っていったら未来に出るのかなという予感がすごくしたんですよね。

 大澤 何億光年も向こうに突き抜けていってしまうそのイメージは、野崎まどさんの「小説」にも通じます。物語という形式が持つ広がりや連なりを千年、2千年のスケールで見ることで開けていく感覚をいま、同時多発的にいろんな作家が抱えているんじゃないでしょうか。近代という枠でしか小説を見てこなかった限界を突破して、小説を再起動しようというわけです。

 古川 町屋良平さんの「生きる演技」は、地の文と言われるものを気がつくと〈われわれ〉が支配している。〈われわれ〉がいるから誰かが見られたり聞かれたりする。こんなふうに語りそのものに肉薄した作家は見たことがない。面白い小説やうまい小説はランクを付けられますが、すごい小説はランクから外れてしまう。作者が苦闘しつつ書いたことが、読んだこちらに移ってしまう。自分のなかにウイルスのように入って、しかも免疫までできちゃっている。パンデミック以降の読書体験は、感染して免疫を作らせてくれることなんじゃないかという気がします。

またちがう世界文学が始まりつつある

 大澤 木村紅美さんの「熊はどこにいるの」も2人が同時に挙げました。

 古川 これは危険な小説だと思います。登場人物たちが自分を説得するための論理とか、自分が考えついたフィクションによって動かされて行動している。4名の人物が見ている世界はまったくちがうんだけれども、それぞれが自分をだますことによって世界が成り立っているという核心部がすごくちゃんと書けている。

 大澤 シスターフッドとか男性性の暴力とか3・11とか、そうしたテーマを小説に落とし込んでみましたというのとはまったくちがった次元で書かれている。いま評価されやすいのは社会的に意義を説明できる小説ですね。文学賞にしても、社会的な説明責任を果たそうとするあまり、分かりやすさの罠(わな)にハマっている。文学的には大変に貧しいことです。もちろん社会や時事のモチーフを扱うのも文学の役割ですが、それに振り回されてしまえば小説として書く意味はありません。

 古川 いま志を高く持って、孤独なたたかいをしている作者たちが出てきている。一面的な正しさのみが正義とされるなかで、ジジェクの言う視差に、文学なり小説なりが入っていこうとしている。国民文学は国家の軸を作ろうとしたけれど、国家の軸が崩れてきたときに、これまで言われてきた世界文学とはまたちがう世界文学が始まりつつある。「文学の終わり」が語られますが、いまは始まりの時期であって、終わりの時期はすでに終わった。そうした思いを持っているひとたちは、無自覚かもしれないけれど、もう書き始めている。そのことを自覚した年でした。(構成・山崎聡)=朝日新聞2024年12月18日掲載