歴史化の試みを
距離をとる方法の一つは、調査票による調査、それもできるだけ偏りの少なくなる方法で回答者を選び出し、複数時点で行われる調査を用いることだ。NHK放送文化研究所が1973年以降5年おきに行っている「日本人の意識」調査はなかでも最も充実したものの一つである。それは必ずしも若者だけを主題とした企画ではなく、16歳以上の全年齢層の日本国民を対象にしているのだが、そのことがこの調査を若者論として(も)重要な意義をもつものとしている。その最新版の報告である『現代日本人の意識構造[第九版]』(NHKブックス・1650円)によると、働き方や家族のあり方など基本的な価値意識における世代間の違いは新しい世代ほど小さいのだという。
例えば団塊世代と新人類世代との違いよりも、団塊ジュニア世代と新人類ジュニア世代の違いのほうが小さくなる。上の世代との違いを強調し、今日の若者の特異性を言い立てる「最近の若者」論が次第にむずかしくなりつつあることをそれは教えている。
二つ目の方法は歴史的な視野のもとに若者を置き直してみることだ。福間良明が『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書・990円)において示したのは、1960年代にいたるまで「若者」とひとくくりにして呼べる同質的な人々はいなかったということである。そこにいたのは農村や都市で働く者たちと上級学校に進学する者たちであり、両者の間には鋭い緊張関係があった。当時の中学校では、進学者と非進学者との間に乱闘を含む激しい葛藤がみられたという。勤労青年たちは進学した同級生たちに鬱屈(うっくつ)した思いを抱き、それが教養への強いあこがれとなった。当時「人生手帖(てちょう)」「葦(あし)」などの雑誌が多くの読者を獲得したのはそうしたあこがれの受け皿となったからである。
鋭い亀裂が走る
しかし60年代に高校進学率が上昇し、労働環境が改善されるにつれて鬱屈やあこがれは徐々に解消していく。「若者」というまとまりが現れてくるのはこのような歴史的経緯を通してのことである。それは経済の高度成長とともに形成された歴史的・社会的な対象なのである。
「青春」という言葉の変容に着目した石岡学の仕事もこのような歴史化の試みの一つである(『みんなの〈青春〉』、生きのびるブックス・2310円)。今世紀に入って生じたという「青春」の変容は、若者(というくくり方)もまた歴史的な変容のただ中にあることを示唆している。
三つ目の方法は、しっかりした理論と調査論とをもって若者たちの中に入っていくというものだ。知念渉(あゆむ)は、大阪のある高校に通い、「ヤンチャな子」らにじっくりと向き合うフィールドワークに取り組んだ(『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』、青弓社・2640円)。厳しい状況にある彼らを理解する上で重要なのは、彼らが学校空間のみならずメディア・ストリート空間、社会空間(階層構造)をも同時に生きているということだ。彼らの人生の軌道はこの三つの空間の持つ力学によって同時に方向づけられる。かつて流行した「ヤンキー論」は、ヤンチャな子らをその行動様式によって同質的な集団とみなしたが、その内部には彼らの社会的背景に由来する鋭い亀裂が走っていると知念は指摘する。この亀裂は、その後の彼らの職業生活をも大きく左右するのである。流行現象の新しさに目を奪われたときに見落とすものの大きさをそれは示していよう。=朝日新聞2025年1月18日掲載