荒川洋治さん「ぼくの文章読本」インタビュー 読まれなくても書く

文章読本といえば谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一らが思い浮かぶが、もっと気安い、さらっとした本だ。登場するのは、石垣りん『詩の中の風景』、新美南吉「手袋を買いに」、東海林さだお『スイカの丸かじり』……。
「指南書じゃない。いろいろな文章があるなと見ていただければいい。それを読んで自分の文章がどうなるかを知らせる。文章読本の常識を少しずらすのも大事だと思う」
詩とともに、エッセーを4千編以上書いてきた。その中から、文章を書くことについての文章を編集者が選んだ。
いまは、ふつうのことばで淡々と書く。しかし、20歳のころは学生運動が盛んな「評論の時代」で、背伸びして評論家的な文章をまねていた。
「それなりのものは書けるけど、自分の体質と違うから自然にわかれた。ただ、抜けきるのは結構大変だった。ふつうの文章を書こうと決めたのは40歳ぐらいですね。ずいぶん気持ちが楽になった」
文章読本はどうすれば読まれるかを説きがちだが、「読まれないこと」も考える。ハンセン病療養所の人たちの『詩集 いのちの芽』(大江満雄編)は、ひろく読まれないことを前提に書かれているという。
「表現はふつう、読まれることによって進化します。でも、自分の内面を見つめていくと、読まれなくても深いところに届く。現代は全体に読まれない時代だけど、書く人の中で個々に深化がある。読まれることに関する尺度を変えないといけないと思う」
それは、鶴見俊輔『日本の地下水』が紹介した1960~81年の小雑誌と通じる。旧軍人らによる「偕行(かいこう)」や、39人のいとこが始めた「いとこ会誌」などは、多くの人に読まれようと書いたとは見えない。「だから文章がきれいです。そういう文章に、少しずつ人は振り向いていくべきじゃないかと思うんですね」
50年書き続けてきて、いま考えることは?
「書きあげたあと、ここはダメだなというのはわかる。ここまでしか行かなかったという限界点が見えてくる。それを悲劇ととらず、楽しみとして少し前を向いていく、というのが文章の歩み方かな」(文・石田祐樹 写真・関口達朗)=朝日新聞2025年2月8日掲載