ハン・ガンさん「菜食主義者」どんな本? ノーベル文学賞を受賞した韓国の女性作家の代表作
『菜食主義者』は、韓国の女性作家ハン・ガンさんが2004~2005年に韓国の雑誌に連載した連作小説です。2007年に韓国で単行本として刊行され、日本では2011年に翻訳出版されました。
ある日突然、肉を食べなくなった専業主婦のヨンへが主人公。日に日にやせ細るヨンへと、変化していく本人や周囲の日常と精神世界を、ヨンへの身近な3人の視点で描く連作小説です。
可もなく不可もない暮らしをしていた専業主婦が、ある日突然肉を食べなくなる。いまの世の中、ベジタリアンはそれほど珍しくないが、彼女の場合、なんらかの主張や、誰かの影響があってそうなったわけではない。自分が見た、気味の悪い夢を理由にするだけ。最初は肉を食べないというだけだったが、夫との関係もどんどんコミュニケーション不全に落ち込んでいく。
もともとは食べることが好きだった妻が日曜日に作ってくれていた肉料理を、夫は回想する。そのおいしそうなこと! 楽しみを奪われ、欲求不満に陥った夫は、妻の実家に連絡する。家族の集まりが計画されるが、その際に決定的な悲劇が起こる……。ハン・ガン「菜食主義者」書評 肉を食べず、手の届かない世界へ
早稲田大学教授の松永美穂さんは「好書好日」に掲載された朝日新聞書評で「三人の身近な人物の視点から語られているが、それぞれの思惑と、女性への距離感がくっきりと表れていて、実に巧み」と評しました。
女性は後半、全身全霊を傾けて一本の木になろうとする。性同一性障害という言葉を耳にしたことはあるが、「種」同一性障害というものもあり得るのだろうか? 人間であるとは、どういうことなのだろう? わたしたちが考える「普通」とか「当たり前」とかいうものに、この小説は鋭く切り込んでくる。豪雨のなかに放り出されたような、強烈な読後感が残る。ハン・ガン「菜食主義者」書評 肉を食べず、手の届かない世界へ
東京・神保町の韓国文学専門書店「CHEKCCORI」の清水知佐子さんは「奇怪で、ともすれば不快に受け止められがちな内容が著者固有の文体で美しく迫ってくる連作小説」と評価しました。
ヨンヘが肉食を拒否するのは「菜食主義者」になるのだという信念からではなく本能的なものであり、奇妙な行動を始めたヨンヘと家族との関係も壊れていく。それらの原因は一見、夫の心ない言動や家父長的な父、一方的な愛情を押し付ける母といった「他人からの暴力」のようにも思えるが、根源にあるのは社会のひずみがヨンヘの心に植えつけたトラウマであり、木になったと自覚したヨンヘもまた、自らが内包する暴力性に気づく。
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『菜食主義者』は2005年、韓国最高峰の文芸賞とされる李箱(イ・サン)文学賞を受賞しました。英語版も出版され、2016年にはイギリスの国際ブッカー賞を、アジアの作家で初めて受賞しました。
2024年10月、ハン・ガンさんはノーベル文学賞をアジアの女性作家として初めて受賞しました。
スウェーデン・アカデミーは授賞の理由について、「作品のなかで、過去のトラウマや、目には見えない一連の縛りと向き合い、人間の命のもろさを浮き彫りにした」と説明。「彼女は肉体と精神のつながり、生ける者と死者のつながりに対して独特の意識を持っており、詩的かつ実験的な文体で、現代の散文における革新者となった」と発表しました。
ハン・ガンさんは2024年12月7日(現地時間)、スウェーデンのストックホルムで受賞記念演講演に臨み、『菜食主義者』について以下のように解説しました。
暴力を拒否するために肉食を拒み、ついには自ら植物になったと信じ、水以外には何も口にしようとしない女主人公ヨンヘは、自分を救うために一瞬ごとに死に接近するというアイロニーの中にいる。事実上二人の主人公というべきヨンヘとインヘ姉妹は、声なき悲鳴を上げながら、悪夢と破壊の瞬間を通過して最後まで共にある。この小説の世界の中でヨンヘに最後まで生きていてほしかったので、ラストシーンは救急車の車内だ。燃えさかる緑の花火のような木々の間を救急車は走り、目覚めている姉は射抜くほどに窓の外を見据えている。答えを待つかのように、何ごとかに抗議するかのように。この小説全体がそのような問いかけの状態に置かれている。凝視し、抵抗しながら。答えを待ちながら。ハン・ガン ノーベル文学賞受賞記念講演「光と糸」