ハン・ガンさん「別れを告げない」どんな本? 韓国・済州島の虐殺を題材に人間愛を問う小説
『別れを告げない』は韓国の作家ハン・ガンさんによる小説です。2021年9月に韓国で出版され、2024年3月に邦訳が刊行されました。
物語は冒頭から不穏な空気に満ちている。主人公の小説家キョンハは、悪夢に追い込まれ、疲れきっていた。幽鬼のように生を綱渡りする日々。そんなある日、友人の映像作家インソンが指を切断した。病院に駆け付けたキョンハに、彼女は飼っている鳥の命を救うため、済州島の家まで行ってほしいと懇願する。
大雪に見舞われたその日、キョンハはソウルを発つ。済州島で見たのは、激しい吹雪の中に浮かび上がる深くて暗い歴史の闇だった。「別れを告げない」書評 引き裂かれた島の記憶から光が
ノンフィクションライターの安田浩一さんは「好書好日」に掲載された朝日新聞書評で、以下のように評しています。
〝虐殺の島〟で、夢とも現実ともつかない風景が立ち上がる。入院しているはずのインソン、そして「四・三事件」を生き延びたインソンの母親が、記憶の糸を紡いでいく。小さな水滴が雪の結晶を生み出すように、事件の輪郭が浮かび上がる。「生きた抜け殻みたいな人」だと思われていた母親の痛みは、心と体を国家権力に引き裂かれた島の慟哭(どうこく)でもあった。
それでも暗闇の中にわずかな光が差し込む。
別れを告げない――タイトルにも込められた静かな決意は、痛みに満ちた残酷な記憶を、再生の物語へと導くのだ。「別れを告げない」書評 引き裂かれた島の記憶から光が
また、梅田蔦屋書店の河出真美さんは、以下のように評しました。
ハン・ガンは、あとがきでこう書いている。「この本が、究極の愛についての小説であることを願う」。究極の愛。それはきっと、死んだと思ってあきらめようと言われても、あきらめずにその人を探し続けること。その人の巻き込まれた恐ろしい出来事がなかったことにされようとも、確かに起こったことを語り続けること。その人を忘れないこと。思い出し続けること。
作中で、登場人物が事故で指を切断してしまい、縫合痕に針を突き刺すシーンがある。出血と痛みが続かなければ、神経が死に、繋げた指が腐ってしまうため、針を刺し続けなければならないのだという。大切な人を探し続け、語り続け、思い出し続けることはきっと、癒えない傷に針を刺すことに等しい。血を流しながら、痛みを覚えながら、それでも針を刺し続けることに、等しい。
別れを告げない。
それは、あなたを忘れてしまうよりも、苦しみながらもあなたを想い続けるという、決意の言葉だ。究極の愛は痛みの中にある。そこではもはや、生きていようと死んでいようと、わたしたちは一緒にいる。ノーベル文学賞ハン・ガンさん 今から読みたい書店員オススメの7冊
『別れを告げない』を翻訳した斎藤真理子さんは、訳者あとがきで「自伝的な要素の強い作品」として、ハン・ガンさんの代表作『少年が来る』との共通点を指摘しています。
自伝的な要素の強い作品である。主人公のキョンハはハン・ガン本人を思わせる作家であり、光州民主化運動をテーマに小説を書いたという設定になっている。文中では「あの都市」「K」などと表記されているが、そこが光州であることは明白で、例えば20頁に出てくる悪夢の「あの年のあの春、虐殺の命令を下した者がそこにいる」という部分は、全斗煥[チョンドゥファン]元大統領(事件当時は就任前)と、1980年5月の光州で市民デモ隊に下された発砲命令とを指す。この「虐殺の命令を下したのは誰か」という問いは、一貫して光州民主化運動の最重要ポイントでありつづけたが、全斗煥はその責任を認めることなく2021年に死亡した。
(中略)光州民主化運動を描いた『少年が来る』にも、作家自身を思わせる主人公が資料を読み込む段階で悪夢を見るという描写があり、この2つの小説の間には多くの共通点があるが、『別れを告げない』は、残酷な歴史を記憶することの意味に向けてさらに一歩踏みこんだ感がある。ノーベル文学賞作家ハン・ガンによる「究極の愛の小説」 『別れを告げない』訳者あとがきより
「別れを告げない」の物語の背景として描かれる「済州4・3事件」は、第2次世界大戦直後の韓国で数万人が亡くなったと推定される虐殺事件です。
植民地解放された朝鮮をめぐって米ソが対立していた1948年4月3日午前2時。漢拏山で左翼勢力、南朝鮮労働党(南労党)の党員らが、米軍政が進める南朝鮮だけの総選挙に反対して武装蜂起し、警察などを襲撃した。鎮圧のため本土から警察や右翼団体が増派され、対立は激化。無関係の住民らが軍や警察に捕らえられ、厳しい拷問を受けたり、処刑されたりした。
韓国政府がまとめた報告書は、犠牲者数を2万5千~3万人と推定。米軍政や当時の李承晩(イスンマン)大統領の責任を認めた。約3千人が日本に逃げたとみられるという。だが、実相は長らくベールに包まれたままだった。
金大中(キムデジュン)政権になってやっと政府が本格的に動き始め、99年に「済州4・3事件真相糾明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が成立。03年には盧武鉉(ノムヒョン)大統領が「過去の国家権力の過ちに対し、大統領として遺族と島民に心からおわびする」と初めて公式謝罪した。朝日新聞2008年4月5日付朝刊「封印解く、民族の悲劇 韓国「済州4・3事件」から60年」
2024年10月、ハン・ガンさんはノーベル文学賞をアジアの女性作家として初めて受賞しました。
スウェーデン・アカデミーは授賞の理由について、「作品のなかで、過去のトラウマや、目には見えない一連の縛りと向き合い、人間の命のもろさを浮き彫りにした」と説明。「彼女は肉体と精神のつながり、生ける者と死者のつながりに対して独特の意識を持っており、詩的かつ実験的な文体で、現代の散文における革新者となった」と発表しました。
ハン・ガンさんは2024年12月7日(現地時間)、スウェーデンのストックホルムで受賞記念演講演に臨み、『別れを告げない』について以下のように解説しました。
この小説は全部で三部から成っている。第一部の旅程は、話者であるキョンハがソウルから済州島の中山間にあるインソンの家まで、一羽の鳥を救うために豪雪をかき分けて進む横の道だとすれば、第二部は彼女とインソンが一緒に人間の夜の底へと――1948年の冬の済州島で起きた民間人虐殺の時間へと――深海の底へ下りていく縦の道である。最後の第三部で二人はその海の底でろうそくに火を灯す。
親友どうしであるキョンハとインソンがろうそくを手渡しては受け取るようなやり方で引っ張っていく小説だが、彼らとつながった真の主人公は、インソンの母である正心(ジョンシム)だ。虐殺を生き延びた後、愛する人の骨のひとかけらでもいいから見つけて弔うために戦ってきた人、哀悼を終わらせない人。苦痛を抱いて忘却に立ち向かう人。別れを告げない人。一生を通して苦痛と愛が同じ密度と温度で沸き返りつづけた彼女の人生を見つめながら、私は問うていたのだと思う。私たちはどこまで愛することができるのか? どこまでが私たちの限界なのか? どれだけ愛したら私たちは最後まで人間にとどまることができるのか?ハン・ガン ノーベル文学賞受賞記念講演「光と糸」