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鴻巣友季子の文学潮流(第29回) 愛する者の死の先へと生を継いでいくことは ミュージカル「メイビー、ハッピーエンディング」から考える

©GettyImages

 今月は演劇の話題から入りたい。この7月から8月にかけてアメリカ合衆国の南部(共和党に有利な選挙区の区割り案が問題になっているテキサス州)、西部(隣接するリベラル州のニューメキシコ)、東部(初のムスリム系市長の誕生が期待されるニューヨーク市)とまわり、あちこちで観劇してきた。

 その一つは、この6月に発表されたトニー賞のミュージカル作品賞受賞作「メイビー、ハッピーエンディング」(ベラスコ劇場)だ。日本でも2020年に上演されているが、これが韓国発だと言うと、韓国のミュージカルがトニー賞を獲ったのかと驚く人が多い。また、主要登場人物は2体のロボットで、大がかりな舞台セットや派手な場面転換もない(アイリスエフェクトなどのデジタル演出はあるが)作品だと言うと、やはり意外がられる。いまもブロードウェイ・ミュージカルと言うと、「キャッツ」や「オペラ座の怪人」のような豪華なエンターテインメントが思い浮かぶようだ。

 とはいえ、少なくとも私がブロードウェイの現地で観てきたこの10数年は、大仕掛けの舞台であっと言わせた「ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812」のような舞台も印象深いものの、もっとこじんまりとして、舞台装置もストリップトダウン(簡素化)した、社会問題や歴史意識を掘り下げるような知的なショーが人気だし、賞のうけも良い。人種や移民、ジェンダー、対人関係などに焦点を当て、格差や断絶を浮き彫りにするこれらのミュージカルを、ナーディカル(ニッチなオタクを表わすnerdとmusicalの掛け合わせ)と呼ぶ批評家もいる。

ロボットを通し人間の本性を描く

 「メイビー、ハッピーエンディング」の時代は2064年の近未来、場所はソウルの「引退ロボット用ホーム」。勤勉なお手伝いロボット・オリバー(ダレン・クリス)の元に充電切れになりそうなお手伝いロボット・クレア(ヘレン・J・シェン)がやってきて充電させてほしいと頼む。ここからふたりの関係がゆっくりと進展していく。役者は特殊装具やメイク、デジタル装置などを使わずに、微妙にぎごちない動作と話し方だけでロボット性をアナログに表現する。

 オリバーは毎日部屋を整頓し、ご主人ジェイムズの好きだったジャズのレコードや専門誌を大事に管理しているが、彼は用済みになった身なのだ。オリバーはそれを認識しておらず、元主人の迎えを待っている。オリバーもクレアもロボットとしては旧式でもう部品も生産されていない。それはロボットにとって近い死を意味するだろうか?

 クレアは自分たちの現状を理解しており、オリバーもクレアが「捨てられた」ことはわかっている。ふたりは互いをいたわりながら、クレアが見たというホタルを見にいくため、済州島まで車でロードトリップに出る。そこである人物に出会い、オリバーは自分がご主人に本当に大切にされていたことを「感じる」のだ。ふたりが飛び交うホタルの光とともに幻想的な一夜を過ごす場面では、もはや涙腺が決壊してくる。

 ちなみにブロードウェイ観客の大半には、済州島という場所の意味と四・三事件の血の歴史は伝わっていないようだった。そこは複雑な気持ちだが、この劇はロボットという無機物(のはずのもの)を使いながら、人間の深奥にある存在の哀しみや生きることの本質に触れている。ロボット、サイボーグ、アンドロイド、クローン、さまざまな人間の似姿が私たちの物語には登場してきた。それは人間の生を写し、ときには反転させることで私たちの本性を映しだす役割を果たしてきたと思う。カズオ・イシグロの『クララとお日さま』がそうであったように。

 ふたりのうち片方が先に「シェルフ・ライフ」(有効期限)が尽きると、もう片方は悟っている。それを知りながら「生きる」こと、その死の先まで自分が存在すること。これ以上つらいことはないと、その片方は思う。心と記憶、それは慰めでもあり苦しみでもあるだろう。生きるというのは、際限なく他者の死に行き会い、それを生き延びてしまうこと、つねに取り残されることだと、ここで観客も思い至るのだ。

尊厳死をめぐる逡巡

 もう一作は、ノンフィクション書を紹介したい。アメリカの小説家・心理療法士のエイミー・ブルームが綴った『In Love 認知症で安楽死を望む夫とスイスで最後の五日間』(神崎朗子訳、大和書房)だ。本書には、正視しがたいことが記録されている。冒頭は、ブルームと夫のブライアンがスイスのチューリッヒに向かう場面から始まり、そこから回想に入り、過去と現在をカットバックしながら綴られていく。

 ブライアンは60代半ばでアルツハイマー型認知症の告知を受けた。まだ自分が自分らしくあるうちに尊厳ある最期を迎えたいと思い、「やっぱり、自分の死に方は自分で決めたい。どうにかして、きみに手はずを整えてもらえないかな」と、妻に頼んだのだった。彼のなかに病気の微かな兆しが顕れてからわずか3年だった。

 先だってこの連載でとりあげたシーグリット・ヌーネスの『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は、末期がんの友人の自死(安楽死)に付き添う「私」の物語だった。「私」は友人から、実行の時には「ザ・ルーム・ネクスト・ドア(隣室)」にいてほしいと頼まれる。そこまで親しくないこのふたりには、ドアを一枚挟むぐらいの距離感があった。ブルームは14年間連れ添った夫の死を同じ部屋で、すぐ隣で、手を握りながら、見届けることになる。

 ふたりは50代の家庭ある身で出会い、惹かれあった。たがいに離婚し、再婚。幸福な日々がつづいたが、ある時から夫は日付や約束を忘れ、妻の書いたものを読んでくれなくなり、60歳を過ぎて教員として採用された大学を辞めるはめにもなった。やがてイェール大のフットボールチームのことや昔話ばかりするようになる。その間、ブルームはなにかがおかしいと思いながら、不安に目隠しをしたり、必死で認知症のことを検索したりしていた。

 ブルームはアメリカ国内での尊厳死の壁にぶつかり、調べるうちにスイスのチューリッヒにある専門施設に行きつく。申請後の手続きはかんたんではない。現地に入ってからも医師との2回の面接にパスしなくてはならない。記憶がおぼつかなく平衡感覚に支障が出ているとはいえ、まだレストランで共に食事をし、冗談を言いあい、自分のしていることを自覚しているまだ60代半ばの夫を死なせることができるのか、ブルームは何度も逡巡する。

 ところが、この施設ではうつ病などの精神疾患がなく、チューリッヒまで飛んでくる体力も気力もあり、自分で医師との受け答えがしっかりでき、自分の意志でサインができる人でなければ、尊厳死の申請は通らないのだ。

 夫はその時を迎える。
 追悼式で詠まれたのは、ふたりが恋に落ちて「互いのそれまでの人生を壊し、結婚へと突き進んでいくきっかけ」となったヴィスワヴァ・シンボルスカ(ポーランドの詩人)の詩「アレグロ・マ・ノン・トロッポ(急速に、だけどあまり激しくなく)」だった。

 愛する者に去られること。その死の先へと生を継いでいくこと。私たちをいつでも苛むのは心と記憶だが、その心と記憶があるからひとは悲しみを乗り越えることができるのだ。