子どもの頃、怖いものがたくさんあった。中でも悪夢の常連だったのが、ニョロニョロだ。アニメ『ムーミン』の再放送で見たのだと思う。画面いっぱいに動物とも植物ともつかない白いものが、言葉も発さずにょろにょろしていた。彼らの目的や正体はわからない。いいやつか悪いやつかも、はっきりしない。それが、ものすごく怖かった。
今思えば、アニメの『ムーミン』はかなりかわいらしい世界に変換されていたと思う。それでも、原作が呼び起こす、いわく言い難い畏怖(いふ)の感覚は失われていなかった。今では全9巻のムーミン・シリーズを愛読しているが、あの怖さを一番思い出させるのが『ムーミン谷の冬』だ。
ムーミン一族は、長い冬を冬眠して過ごす。ところが、ムーミン家の一人息子ムーミントロールは、冬眠の途中で目が覚めてしまう。家は静まり返り、パパもママも深い眠りの中。初めて目にする冬の我が家は「よそよそしくてふしぎな感じ」だ。台所には正体不明の生き物までいて……。ムーミンは半泣きで、外の雪に埋もれたムーミン谷へと飛びだす。そして、導き役となる賢いトゥーティッキや、ストーブに住みつくご先祖さま、恥ずかしがりで姿が見えないとんがりねずみなど、夏とは違う顔ぶれに出会う。
彼らのことが理解できないと言うムーミンに、トゥーティッキは語る。「この世界には、夏や秋や春には居場所のないのが、いっぱいいるのよ(中略)どこへ行っても場ちがいに感じてしまったり、だれのことも信じられなかったりする人たちとかね」。やがてムーミンは、正体のわからない者たちを曖昧(あいまい)なまま受け入れるすべを学んでいく。
シリーズには、スナフキンやミイなど人気キャラクターが多いが、曖昧さを「安心」と呼び、「ぜったい、なんてものはない」と説くトゥーティッキはとりわけ魅力的だ。モデルは作者ヤンソンのパートナーだったトゥーリッキ。大人の読者は、ヤンソンの伝記をひもとき、ムーミン谷の秘密に迫るのもまた楽しいかもしれない。(翻訳家)
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山室静訳、講談社文庫・748円。著者は1914年生まれ、フィンランドの画家・作家。ムーミン小説9作品は戦争中に書いた45年の『小さなトロールと大きな洪水』で始まり、今作は57年刊。01年没。=朝日新聞2025年9月6日掲載