取材で知らない街に行くと、時間を見つけては探すものがある。それは街のパン屋やケーキ屋である。その土地の人たちに親しまれる、日常の味を作り続ける老舗も多いので、口にすると旅人から一歩踏み込んだ気持ちになれるのだ。まあ私が小麦粉と甘いもの好きというのもあるのだが。
今年に入ってから何度も足を運んでいる山口県宇部市(その理由についてはまたの機会に紹介したい)の隣の山陽小野田市に、シフォンケーキを焼いている本屋があるという。これは宇部に行ったら、足を延ばさないわけにはいかないだろう。
まずは宇部市の中心街にあるJR宇部新川駅から、黄色い2両の小野田線の車両に乗って約30分、小野田駅に向かう。整理券を引いて下車駅で運賃を支払う電車は、青森県の大間崎に行った時に乗ったJR大湊線以来だ。さらに小野田から山陽線に乗り換え、1駅先の厚狭駅を目指すと、新幹線の高架が視界に飛び込んできた。山口宇部空港ユーザーだったので知らなかったが、新幹線が停まる駅だったとは。
軽い驚きとともに在来線口から下車すると、駅前広場に銅像が鎮座していた。詳細を確認しないまま3分ほど歩くと、佐々木書店 BOOKCAFEが見えてきた。しかしあの銅像、一体誰だったのか……?
「あれは三年寝太郎ですよ」
佐々木書店の4代目・野田里依さんが教えてくれた。えっ、三年寝太郎って実在してたの? しかし寝太郎への驚き以上に、書棚とケーキのショーケースが並ぶ光景に、目が釘付けになった。
大雨で店も在庫もすべて水に浸かる
今と同じ場所に佐々木書店が創業したのは、1932年のこと。昭和から平成にかけては書籍や雑誌、マンガはもちろん地域の小学校から高校までの教科書を扱う、街の本屋だった。そのため進学シーズンになると、店の前に教科書を買いに来た子どもたちで行列ができるほどだった。
そんな佐々木書店が転機を迎えたのは、2010年7月上旬のこと。梅雨末期の局地的な大雨が降り注ぎ、近くの厚狭川が氾濫して市内の400戸以上が床上浸水した。佐々木書店も被害を受けた。
「すぐ近くに住む方はボートで救出されるほどの大雨で、うちも本が全部水に浸かってしまいました。3代目の父が店主だったのですが、もうやめようかと思っていたら、近所の方から差し入れを頂いたり『辞めないで続けてほしい』と励まされたりして。でも建物の土台そのものが腐ってしまったので、自宅兼本屋を建て替えることにしました」
1年後の2011年に下関から里依さんが戻り、その後、同じく下関にいた7歳違いの妹、廣瀬麻友さんも地元に帰ってきた。家族で話し合い、「本屋だけではこの先厳しいから、佐々木書店をブックカフェにしよう」という結論を得た。里依さんはそれまで、本屋を継ぐことは考えたことがなかったそうだ。
「そんなに本を読む子どもではなかったし、中学生の頃はパティシエになりたくて。当時は近くの県立厚狭高校に食物科があったので、そこに迷わず進学しました」
3年間みっちりと食物について学んだ里依さんは、高校卒業後は喫茶店やケーキ屋、パン屋など飲食の仕事にかかわってきた。麻友さんも将来の夢は保育士で、やはり本屋の仕事を手伝うことは考えていなかった。しかし水害に遭っても、自分の代で店を閉めたくないと語る父親の姿を目にして、2人の気持ちに変化が起きた。
コロナ禍で2度目の転機が訪れる
水害から5年が過ぎた2015年12月、佐々木書店はブックカフェとして生まれ変わった。フード類は里依さんが手掛け、接客は母親と麻友さんが担当することに。ホームページは里依さんの弟によるもので、父・雅史さんはコーヒーをお客さんに供す役割を担うことになった。
スイーツやコーヒー、ランチプレートを目当てに、徐々に店を訪れる人が増えていった。またキッズスペースもあったため、子どもを遊ばせながら絵本や自分の本を選んだりと、本の売り上げもV字回復しつつあった。そんな中、2度目の転機が佐々木書店に訪れた。
「2020年のコロナ禍です。近隣は高齢者も多く、営業自粛を余儀なくされました」
一人一人に合わせた感染対策が難しかったため、店を閉めざるを得なくなった。ブックカフェとして生まれ変わって5年経ったが、この先はどうしたら良いのか。再び家族で話し合い、里依さんによる、人気メニューのシフォンケーキと本を並べてもう一度頑張ろうと決めた。かくして手作りシフォンケーキが買える店として、2022年8月に佐々木書店の第3形態がスタートした。
「カフェは5年続けましたが、ケーキはそれを超えて6年目に入りました。シフォンケーキは味がシンプルなので、使う材料にこだわっています。卵は下関市豊北町滝部の卵農家さんのもので、牛乳も山口県産のものです。9月から登場予定の豊田町の梨を使ったシフォンは、私のご近所さんの実家が梨農家だったことで生まれました」
シフォンケーキは火・木・土の週3回、多い日には300個焼いている。作り置きはせず、当日の朝に家族皆でカットや包装をしながら、開店時間までに作っているそうだ。定番を含めて8種類、季節限定フレーバーもあるため、今では市内はもとより、県外から買いに来る人もいると里依さんは語った。
お客さんの思いとともに「本屋」であり続ける
本の在庫は約1000冊で、うち半分程度が絵本になっている。絵本は実際に手に取って、子どもと一緒に中を見てから買う人が圧倒的で、本屋で売ることとの相性が良いからだ。書籍や雑誌は話題になったものや、これまでに注文があったり、家族の誰かがその時に読みたいと思ったりしたものを並べている。確かに麻友さんが関心を持っていた睡眠の本や、雅史さんおススメの雑誌『自遊人』など、誰かの頭の中をのぞいているような品揃えが見てとれて、なかなか個性的だ。
「でも自分の趣味に寄りすぎているので、今後はSNSなどで色々な人に『これまでに影響を受けた本』などを教えてもらい、そこで名前が挙がったものを置いてみようかと考えています」(麻友さん)
5代目はどうですかと聞いてみたところ、2人とも自分の子どもに継がせることは考えていないと首を横に振った。電車待ちの人がふらりと立ち寄って文庫などを買っていくことはあるが、本の売り上げは年々厳しさを増している。シフォンケーキの手堅い人気があるからこそ、本屋を続けられている部分はあると、麻友さんが胸の内を明かしてくれた。
「『あんたらのじいちゃんから本を買ってたんだよ』と言われることもあります。本屋であることに対しては、もしかしたらお客さんの方が思い入れがあるのかもしれません」(里依さん)
とはいえ2人ともお連れ合いがコーヒー好きで、さらに麻友さんの夫は1人で書店巡りをするほど書店好きなのだという。子どもの未来は未知数だけど、もしかしたら2人の夫が定年後に5代目を襲名するかもしれない、なんてことを考えてしまった。
お二人に別れを告げて宇部に戻り、ホテルでコーヒーとともにシフォンケーキを味わってみる。食パンの代わりに朝ごはんにする人もいると聞いていたけれど、しっとり柔らかくほろっと口の中で溶けていく。うん、確かにこれなら朝に急いで食べても、のどに詰まることはなさそうだ。
シフォンケーキの定番ともいえるプレーンな味の「本屋さんのシフォン」と酒粕の豊饒な甘さが特徴の「酒粕と大納言」、さらに甘味が楽しめる「キャラメル紅茶」と、気付けば三つを一気に食べていた。店で試食した「豊田町の梨」を入れると、1日にシフォンケーキを4個食べたことになる。だが後悔はない。基本を抑えつつも優しく地域に寄り添うスイーツが、本屋で生まれていることが何より嬉しかったからだ。
その後調べた寝太郎は、やっぱり民話の人物だったけれど、佐渡島で集めた砂金を売ったお金で灌漑用水路を作り、土地を水田に変えたヒーローと言われているようだ。物語が人々の生活にある厚狭で、7年後に創業100年を迎える佐々木書店の物語も、まだまだ続いていってほしいと願う。
佐々木書店の姉妹が選ぶ、ふわっとほわっと気持ちがほぐれる3冊
●『愛を伝える5つの方法』著・ゲーリー・チャップマン、訳・ディフォーレスト智恵(いのちのことば社)
愛を伝える、この方法が少し食い違うだけで、一生懸命伝えたつもりだけど相手には伝わってなかったりする。身近な大切な人との関係で悩んだ時に、ぜひ読んでみてほしい一冊。(野田)
●『星空の谷川俊太郎質問箱』谷川俊太郎(ほぼ日)
「世界のすべては質問からはじまる」――詩人・谷川俊太郎が、素朴な問いにユーモアと深さで答える一冊。質問にこめられた想いに優しく、ときに鋭く応える。読むほどに心がほぐれる本。(廣瀬)
●『親になってもわからない 深爪な子育てのはなし』深爪(KADOKAWA)
正解のない子育てに、共感と笑いを。親になってもわからない事だらけの毎日。悩み迷う日々をリアルに綴った、オブラートゼロの子育てエッセイ本。読み終えた後、少し前向きに子育てを楽しめるはず。(廣瀬)