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佐々木愛「じゃないほうの歌いかた」 恋が実らないほうの人々描き、その思いの価値伝える(第30回)

©GettyImages

切ないけど、可笑しい

 佐々木愛のどこが好きって、小説の文章が好きだ。
 いろいろなところで書いているのだけど、まだ直木賞を獲っておらず候補にもなっていない作家で、私がぜひ受賞してもらいたいと思っているのが、佐々木愛、宮島未奈、上村裕香の3人だ。なかでも佐々木愛は別格に好きである。
 新刊『じゃないほうの歌いかた』(文藝春秋)を読んで、その思いはさらに強まった。

 6篇から成る連作短篇集で、巻頭は「池田の走馬灯はださい」という作品である。語り手の〈わたし〉こと池田は大学に入るため地方から東京へやってきた。地元にいるときに受験勉強をするためにたびたびこもっていたこともあってカラオケボックスに親近感を抱いている彼女は、入学式の前日に有名チェーンの店を見つけて入る。そして「東京」が題名に入った10曲を歌って、自らの前途を祝福するのである。「前奏が始まると、とんでもなくいいことがこれから始まる気がして」きた、と佐々木は書く。
 この「とんでもなく」は「とんでもなく」史上に残る最高の使われ方ではないだろうか。地元のしがらみからやっと抜け出し、今までとは違う自分になれるという高揚感が、すべてこの一語に詰まっている。この副詞を選ぶ感覚がいいのである。
 もっとも期待は裏切られ、池田はカラオケ恐怖症になってしまうのである。きらきら光る東京の一部になれたつもりがそうではなかった。入学早々どうしようもない疎外感を覚えてしまった池田は、きらきらしたものからひたすら逃げ続けるようになる。

 そのきっかけとなった出来事は、小説の冒頭で明かされている。「カラオケのイメージ映像に出ていそうな女」と言われたことが、二度あったからだ。初めてそれを言われたのは語学クラス親睦会の二次会だった。発言者は本人がそれを聞いているとは知らずに口にしたのだ。あまりの衝撃に池田は、そのまま二次会を抜け出して帰ってしまう。
 作者はその事実を書いた後に駄目押しの文章を置いている。
――帰り道、泣きたかったが、泣かなかった。四月の霧のような雨が降っていて、その中を泣きながら走ってしまったら、もっとカラオケの映像に出ていそうな女になるからだ。
 こうやって笑いの方に寄せてくるのも佐々木の特徴だ。切ないけど、可笑しいのである。可笑しいけど、本人にとってはたまらなく哀しいのだ。語りを任せた登場人物と物語を綴る作者本人の間に距離を作り、冷静なつっこみを入れるという技法によって、くすくす笑わせようとしてくる。まんまと笑ってしまった後に、心の中に空洞ができていることに気づく。ペーソスがそこから生まれるのである。
「池田の走馬灯はださい」は、『オール讀物』2023年11月号に掲載されたときには「ジョブス忌の夜」だった。アップル社の共同創業者の命日には必ずカラオケをする先輩に池田が付き合わされるという話である。つまり、今紹介した後でそういう展開が待っている。それは読めばいいのでここでは書かない。

コロナ禍の時期の三角関係

 単行本として『じゃないほうの歌いかた』が出たとき、「ジョブス忌の夜」と「加賀はとっても頭がいい」が連作になったのか、と仰天した。この感情を共有してもらえる人は稀ではないかと思う。『オール讀物』の掲載時に佐々木愛を読んでいなければ、別に驚く要素はないからである。私は驚いた。全然別の独立した短篇だと思っていたからだ。
「加賀はとっても頭がいい」は『オール讀物』2021年11月号に掲載された。「ジョブス忌の夜」よりこっちが先なのだ。2021年に発表された中では5指、いや3本の指に入るほど好きな短篇である。三角関係を描いた恋愛小説短篇としては最高の部類に入ると思う。
 この不思議な題名の小説も、完璧な1文から始まる。紹介するので味わってもらいたい。
――今朝の染井さんの体温は、36.7度だったらしい。だからわたしと加賀は今夜、36.7度の湯につかる。
 発表年からわかるように、小説が書かれ、発表されたのは新型コロナウイルス流行の真っ只中だった。人々が直接会うこと、特に多数での集合は望ましからぬ行為とされ、それまでの人間関係を維持するための手段としてネット上のコミュニケーションが重用された。
 そうした時代の空気を濃厚に孕んだ小説である。染井さんは飲み会などを通じて面識のある72人をSNSのグループとして登録し、投稿を毎日している。染井さんがその日の体温を報告する投稿をするようになって半年経つ、というところから話は始まる。意味はないかもしれないが、つながりを保つためにメッセージを送り続ける、という行為は、もしかすると10年後、20年後には理解されづらくなっているかもしれない。だが今ならまだ風化していない。私もコロナによる自粛が始まったとき、面識のある人に1日1枚ハガキを出そうと思いつき、緊急事態宣言が解除されるまでそれを続けたことがある。無人島から流れ着く瓶入りの手紙だと思ってくれればいいと考えたのである。その空気を佐々木は書いている。
 コロナの件はいい。問題は、なぜ〈わたし〉と加賀は36.7度の湯につかるのかということだ。答えは、染井さんが好きだから。実は染井さんは婚約していて、間もなく挙式することも決まっている。コロナのせいで延び延びになっているのだ。叶わぬ恋なのである。だから〈わたし〉と加賀は、自分たちが限りない愛を注ぐ対象である加賀さんと特別な形でつながっているために、彼の体温と同じ36.7度の湯につかるのだ。
 三角関係が話の軸になっている。だけど〈わたし〉と加賀の思いは、報われないことが最初からわかっている。過去に奇跡のような一夜があり、〈わたし〉と加賀は、ごくわずかな時間だけ、染井さんと特別な空間にいることができた。彼らにとっては、それが心の支えになっている。

叶わぬ恋への応援ソング

『じゃないほうの歌い方』の各篇には、同じカラオケ店が登場するという共通項がある。「BIG NECO」というふざけた名前の店だ。収録作のうち「石崎IS NOT DEAD」は、そのBIG NECO店員の視点から語られる話である。カラオケ店が舞台だから、そこで歌われる曲も重要な小道具になる。たとえば「石崎 IS DEAD」は、タッキー&翼の各曲と島倉千代子「人生いろいろ」の話だ。なぜタッキー&翼。佐々木の趣味なのだろうか。そして「加賀はとっても頭がいい」では、非常に大きな意味を持つ要素としてある歌が登場する。懐かしや、と思ったが〈わたし〉の生まれた年の曲なのだという。
 その曲の歌詞が、恋敵同士である〈わたし〉と加賀に同盟関係を結ばせることになる。書き忘れたが〈わたし〉は女性、加賀は男性だ。染井さんは男性。つまりそういう三角関係である。二人は染井さんの幸せを祈る仲間となり、その固い意志を確認するためにたびたび会うようになるが、やはりコロナのためにそれも阻まれるようになる。会えなくなってしばらく経ち、加賀からのメッセージが途絶えたために〈わたし〉は電話をかける。ひさしぶりに聞く彼の声は、なんとなく元気がなかった。
 ここで、本作でいちばん好きな文章が来る。
――奧から、加賀の部屋でついているらしいテレビの笑い声が聞こえた。わたしも体を起こし、テレビをつけた。暗い部屋で、同じチャンネルを探してザッピングしながら、思った。加賀にもずっと笑っていてほしい。
 つながりを持ちたい人と会えずにいる哀しみ、関係の中で生まれた温もりを絶やしたくないという願いが、見事にこめられた文章だと思う。
「加賀はとっても頭がいい」は恋愛小説だが、成就を描いた物語ではない。むしろ叶わないことを前提としながら人を思うという小説だ。思いはたいがい一方通行である。でもそれを持ち続けるのは無意味ではない。そうしたことが各篇で語られる。巻頭の「池田の走馬灯はださい」や、かつてカラオケ映像に役者として5秒だけ出たことがある男性が主人公の「君の知らないあの佐藤」は、その思いを発することが難しくなった人の話だ。自分が持っている、あるいは持っていた思いに意味などないのではないかという迷いに気圧されるからである。そんな彼らを佐々木は応援する。佐々木にしかできない、とても入り組んだ、しかし絶対に心に届くであろうやり方で。こういう応援ソングもあるのか、と感心する。

 連作なので、前のほうに出てきた登場人物が後の話にも顔を出す。エピローグ前の「矢沢じゃなくても」はその技巧が最も効果的に用いられた作品である。もっとも好きな1文は前述の「加賀はとっても頭がいい」にあるが、もっとも好きな台詞はこの作品に出てくる。売れない小説家の語り手に、妻が別れを切り出したときのものだ。動揺する主人公はその意味をまともに捉えることができない。でも元妻にとっては、一方通行になるとしてもどうしても表明しなければならなかった思いなのだ。むしろ読者の心に、彼女の言葉は届くだろう。
『じゃないほうの歌いかた』という短篇はない。「じゃないほう」は、佐々木の中でとても大事な要素である。主役になるのはいつも、きらきらしていないほう、主役ではないほう、恋愛が実らないほうの人々だ。それでも彼らは歌う。歌わないわけがないではないか。
 その歌声が空を、世界を、あなたの心を満たしてくれることを祈る。心から。