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戦後80年、アメリカ 「敗北」からの展開、再検討を 古矢旬

米戦艦ミズーリで降伏文書に署名する重光葵外相=1945年9月2日

 「アメリカ」は壊れつつあるように思う。それも、内側から蝕(むしば)まれ崩れつつあるように感じる。誇らしげに掲げてきたはずの「リベラルなアメリカ」という自画像が、内外のリアルな状況と極度に乖離(かいり)してしまっているのだ。

 そんな自画像の代表と見なされてきたのがルイ・ハーツ『アメリカにおけるリベラルな伝統』である。論旨はごく簡明である。いわく、旧世界の封建的・宗教的抑圧を欠いたアメリカ社会は、その初発から自由であった。したがって独立宣言や合衆国憲法など建国の文書は、革命的というよりこうした既存の社会状態を再確認し、補強し温存することを目的とした。これら法的補強装置のおかげもあり、個人主義と私有財産権を中核とするリベラリズムは絶対的信条とされ、アメリカの顔として内外に広く喧伝(けんでん)されてきたという。

 実際、この自画像に恥じない振る舞いを続けてきたかというと相当に怪しく、むしろリベラルな規範からの逸脱の方が常態であったかもしれない。にもかかわらず今日まで、世界がそうあれかしと期待してきたのは、リベラルな伝統の中のアメリカであった。

 ところが今、「アメリカ第一」主義とMAGA(「アメリカを再び偉大に」)を旗印に、この伝統を支えてきた憲法的仕組みの解体を目論(もくろ)む動きが急である。はたして日本を含め各国は、外交を「ディール」へと変質させた大統領に率いられたアメリカと、互恵的で安定的な関係を築いていけるか。戦後の日米関係の原点を再確認することは、ことのほか有益かもしれない。

アジアへの無関心

 まず立ち返るべきは、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』であろう。ダワーは、敗戦直後の惨憺(さんたん)たる日本社会の襞(ひだ)の隅々を巡り、飢餓と貧困に苦しみながらも、活力に満ちた「敗北の文化」を生み出していった市井の人びとを、深い共感をもって描き出してゆく。そして六年八カ月の占領下、日本社会は、絶対権力をもつ連合国軍総司令部(GHQ)による「上からの革命」と帝国日本の遺制や旧支配層の抵抗とがせめぎ合う中で、大きく変容を遂げてゆく。

 日本にとって幸運だったのは、占領前期にはリベラリズムの一つの頂点を極めたニューディールの影が色濃く残っていたことだろう。そうでなければ、農地改革、婦人参政権、労働三法や日本国憲法の成立も危うかったであろう。

 忘れてならないのは、占領がほぼアメリカ主導で行われた結果生じた、日本人の世界観の歪(ひず)みである。一九四八年以降、冷戦の過熱により、日米の一体化が進むにつれ、日本人は他国、他地域、特にアジアに対して閉鎖的、無関心になっていった。東京裁判に触れて、ダワーはいう。「この裁判は、基本的に白人の裁判だった」。そこにアメリカの「リベラルな伝統」に潜む盲点や偏見の反映を見ることはおそらく的外れではない。

他の世界取り戻す

 占領の終結は「アメリカ」への関心を解き放ち、若い知識人や学生がアメリカを目指し、そこでの見聞をもとに斬新なアメリカ論が生まれた。その最も優れた例が、小田実『何でも見てやろう』と有吉佐和子『非色』である。小田が三二年、有吉が三一年の生まれで、渡米時期も小田が五八年、有吉が五九年と近い。

 フルブライト留学生でありながら、小田はハーツには目の届かなかった下層民衆のアメリカ社会を放浪する。在野精神に満ちた街シカゴを故郷の大阪と重ねて愛し、ニューヨークでゲイのカップルのアパートに転がり込み、何もかもが「白人用」と「黒人用」に分かたれた南部で、有色人種でありながら「『白人』の世界に安住している自分」を「重苦しいものに感じる」。

 しかし本書中、アメリカが舞台なのは三分の一、残りはヨーロッパ、アフリカ、中東、インドへの世界周遊記である。現代文明の粋として摩天楼に魅せられた小田は、この極貧旅行の後半で、アメリカを、世界のより古い文明群の中に置き直し、相対化を試みる。あたかも、占領期の日本人がアメリカを凝視しすぎて見失ってしまった「他の世界」を、自らの視野の内に取り戻そうとするかのように。

 『非色』は、敗戦直後のどん底で占領軍の黒人兵士と結婚し、生まれた子供に降りかかる日本人の人種差別の目を逃れ、アメリカに渡る女性の苦闘の物語である。主人公・林笑子(えみこ)は、どん底というべきニューヨークの「ハアレム」で暮らし始める。

 笑子は、このデモクラシーの国が、微細で陰湿な多重的人種間差別からなる社会を土台としていることを発見してゆく。素朴だが上昇志向を失わず、差別意識に染まっていながらも、人の尊厳を損なう不当な仕打ちには我慢ならない俠気(きょうき)の女性。そんな笑子が到達するのは「非色」、すなわち「肌の色は問題ではないのだ!」という境地である。

冷戦という隠れ蓑

 グレイス・M・チョー『戦争みたいな味がする』は、アメリカの白人男性と韓国で結ばれ、渡米した著者の母の、壮絶な生涯をめぐるノンフィクションである。笑子の物語の韓国版かと思われるかもしれないが、決定的な違いは、こちらは四一年大阪の生まれ、つまり彼女の人生は日本の植民地支配下に始まっていることである。日本統治が終わっても韓国では占領が続く。変わったのは「占領する主体だけだった」。後にアメリカで彼女が「戦争みたいな味がする」と忌避したのは、日本でもおなじみ占領軍の善意の象徴、援助物資脱脂粉乳である。

 本書は、アメリカ西部の白人コミュニティーに逃れたのち、統合失調症を病んだ母を娘の著者が見守り、料理を介して昔の母を取り戻していく恢復(かいふく)の物語である。ここにも白人中産社会の人種・ジェンダー意識が影を落とし、ハーツが問うことのなかったリベラル・アメリカの暗い断面が浮き彫りにされている。

 同時に、戦後日本がアメリカ占領体制内に逼塞(ひっそく)し、冷戦アメリカを隠れ蓑(みの)とすることで、自ら問い直さずにきた戦前の朝鮮支配やアジア諸国侵略に伴う性加害問題に切っ先の届く、批判の書でもある。

 今、わが国では日米両国の同盟関係を言祝(ことほ)ぎ、さらなる連携を訴える声が強まっている。しかしここに取り上げた作品はどれも、拙速に歩を進めるに先立ち、いま一度、八〇年前の壊滅的「敗北」という出発点に立ち戻り、そこからの日米関係の展開を、世界史の文脈において再検討することを促しているように思えるのだが、いかがであろうか。=朝日新聞2025年12月13日掲載