つながる東アジア 未来を開く共通理解と個の思考 中島隆博
携帯電話の着信音が静かな口笛だとすれば、その持ち主をどんな人だと思うだろうか。ずいぶん前に韓国の延世大学を訪問した時、白永瑞(ペクヨンソ)さんはそっと着信音を消した。韓国の民主化運動に関わり、「創作と批評」の編集主幹を務めていた実績から勝手に抱いていた剛直なイメージとは異なって、実に控えめで静謐(せいひつ)さを湛(たた)えたお人柄であった。
白さんの編集した『百年の変革』(青柳純一監訳、法政大学出版局・4400円)では、「連動する東アジア」という概念が提示されていた。その具体例が、一九一九年の三・一運動と戦後の沖縄である。白さんによると、三・一運動は朝鮮での孤立した「革命」ではなく、第一次世界大戦という近代西洋文明が根底から破壊された経験のもと、中国の五・四運動そして前年の日本の米騒動と連動した、「世界史的な『同時性』を帯びた事件」であった。ところが、大正デモクラシーの日本はここで「東アジアと人類の文明の先駆的な位置に立つ変革の機会を逸したのである」。
戦後の沖縄も同様に「連動する東アジア」の中にあった。「日本・米国・韓国・台湾の政府間合意」と中国の黙認により、米軍基地のある沖縄本土返還が実現してしまった。平和憲法下の日本への返還を求めていた沖縄の思いとは異なる冷戦体制が機能していたのである。
白さんは中国史の専門家でもあり、「中国に東アジアはあるのか」と問い続けている。それに呼応するかのように、上海の復旦大学の歴史学者である葛兆光(かつちょうこう)さんは「中国とは何か」を問うことで、中国という「同」を揺さぶり、「異」としての中国の周辺地域との間に、共通理解を醸成しようと試みてきた。葛さんが二〇二〇年に東京大学に滞在し、日本の歴史学との対話を通じ、その思想を深めたのが『形似神異(けいじしんい)』(新井孝重監訳、志学社・4400円)である。
ここで、葛さんは歴史学者の役割を「同中に異を求める」ことだと喝破している。特に考えさせられるのは、近代の世俗化に関するものだ。ヨーロッパでは政治と宗教が分離し、政治が世俗的な「民治」に向かったのに対し、日本は「神治」に、中国は「徳治」に向かった。日本は伝統的な神聖性に訴え、中国は皇帝の徳に依然として頼ったのだ。ただ、今日の世界的な宗教復興を考えると、「民治」の正統性を考え直す必要がありそうである。日本や中国の民主主義の経験が問われている。
エラスムス大学ロッテルダムの哲学教授ユク・ホイさんは自らを「移民」と呼ぶ哲学者である。香港、ヨーロッパ、日本を行き来しながら、哲学と技術の関係を考え続けている。その「宇宙技芸」という概念は、技術の西洋独占を退け、それぞれの地域の世界観に技術が基づいていることを示し、アマゾンの先住民の人々をも鼓舞してきた。
近著『ポストヨーロッパ』(原島大輔訳、岩波書店・2860円)もまた、二〇二三年の東京大学滞在中に想を練ったものだ。京都学派の西谷啓治や台湾で活躍した現代新儒家の牟宗三の著作と向き合い、世界のヨーロッパ化の後にハイデガーが考えた技術による「総かり立て体制」を別の仕方で問うたのである。自分たちの伝統からも近代ヨーロッパからも二重に根こぎになったわたしたちが、技術に振り回されることなく、未来を開くにはどうすればよいのか。
ホイさんの差し当たりの回答は、「思考の個体化」である。安易な東西比較の罠(わな)を逃れて、多様な思想の力線が交叉(こうさ)するなかで思考を鍛えるというものだ。ここに、移動する人ホイさん自身の経験が投影されている。日本や中国や韓国といった地域思想を揺さぶり、思考をその人独自のものにすることで、新しい立居振舞(たちいふるま)いが登場するのだ。未来への希望があるとすれば、このささやかな個体性だろう。=朝日新聞2026年3月21日掲載