『国富論』250年 望ましい経済社会、基盤は道徳 野原慎司
アダム・スミスの『国富論』は今からちょうど250年前の1776年に刊行された。商品の売り手と買い手が、自分の利益を最大化できる選択を自由に選び競争することに基づき経済は発展する。そんな市場メカニズムを明らかにしたスミスには、「見えざる手」の言葉とともに、自由放任主義の人というイメージが根強くある。資本主義の強欲な活動をも肯定したと受け取る向きすらある。しかし、そんなスミス像は果たして正しいのだろうか。
日本はスミス研究が最も盛んな国の一つだった。戦時下に国家に抑圧された経験を持つ研究者たちは、自由な個人による市民社会を実現するためのヒントをスミスに求めた。代表格が経済学者の高島善哉(ぜんや)だ。戦前から高島は著述したが、今日でも手に入るのが1968年に著した『アダム・スミス』(岩波新書・902円)である。高島はスミスが自由放任主義者であるという見方を否定する。高島は、戦前からの不自由で不平等な社会に対して、自由で平等な社会という理想をスミスに見出(みいだ)そうとした。社会のルールを支える道徳や法が基礎となり経済活動の自由があり得る。その自由は、国家や家族による抑圧がまだ強かった戦後日本にとり解放原理となりうるものであった。
同調圧力がいわれる日本社会に、高島の問題意識はいまも有効だろう。しかし個人の自由が一定程度達成されたことにより、競争が利害関係のない他者や社会への無関心を生むという新たな問題も現れている。
そこで改めて注目されているのが、スミスが経済活動の基礎にあるものとして道徳を重視していたという点だ。スミスは『国富論』のみならず、道徳を主題とした『道徳感情論』の著者でもあった。堂目(どうめ)卓生『アダム・スミス』(中公新書・1100円)は、明瞭かつ精緻(せいち)に、経済活動は人間同士の関係に支えられるとスミスが考えていたことを描く。とりわけ、赤の他人がどう見ているかの目線を内面化した「公平な観察者」というスミスの提示した概念を用いることにより、道徳的に望ましい形で自己の行動を律することができるとする。
スミスが競争万能主義ではないとする研究は海外に厚い実績がある。ニコラス・フィリップソン『アダム・スミスとその時代』(永井大輔訳、白水社・3080円)は、スミスの経済学の背後にある道徳・政治思想や時代背景を伝記的に描き出す。スミスの思想の背景には、生まれ育った地スコットランドでの啓蒙(けいもう)主義運動があった。そこで富と徳が両立しうるのかが問題にされたことが、スミスに甚大な影響を与えた。
社会主義が資本主義の現実的代替選択肢でなくなって久しいが、資本主義の弊害は依然として解決されていない。現代経済学の主流のアプローチもこの問題に十分に対応できていないが、その背景にはデータ化やモデル化で事象を理解することで事象の背後の人間を見失うことがある。しかしスミス経済学は人間の現実の営みを見つめようとしていた。例えば『国富論』では、貿易を理論上の問題として捉えるのみならず、アフリカ人を奴隷として使用することを批判する。現代の経済学や個人が見失いがちな、経済行動を個別の人間への関心から見つめる目線がある。
『国富論』は複数の邦訳があり、新訳としても高(たか)哲男訳(講談社学術文庫・上2750円、下2970円)が出ている。大部ではあるが、大局的な市場社会認識や文明の発展から、細部に至る経済活動の分析まで見られ、多面的で複雑な現実を把握できる醍醐(だいご)味がある。一方的な見方で物事を捉えることが広まりがちな昨今の風潮への警告ともなりうる。=朝日新聞2026年5月9日掲載