【谷原店長のオススメ】世阿弥・著、水野聡・訳「現代語訳 風姿花伝」 佐藤二朗さんの「花」を思う
「きみ、『ジョハキュー』って知ってる?」。舞台の稽古場で、ある演出家さんに当然言われました。まだ若かった当時の僕は「なんだそりゃ?」。その方は僕に、「序破急(じょはきゅう)」の考え方について書き記された1枚の紙切れをくださり、初めてその概念を知りました。
「序破急」。これは、もともと舞楽の楽曲を構成する3つの楽章のこと。「序」は導入部。そしえ展開部の「破」、さらに最後、結末部の「急」――。徐々にテンポを上げ、クライマックスへと向かう一連の流れは、音楽に限らず、浄瑠璃、講談などの話のテンポや、声音の緩急の付け方などに採り入れられているそうです。似た言葉に「起承転結」があります。これはよく知られていますよね。中国の漢詩「絶句(4句の詩)」に端を発する考え方です。
「序破急」は、室町時代に世阿弥が『風姿花伝』で書き記してから、芸能のみならず武道、茶道など、芸道における基本理念として、広く受け継がれてきたものだそうです。
春から生活リズムが変わり、いま一度、役者として芝居と向き合いたいという欲が出ています。そんな折、改めて手に取った本が、この『現代語訳 風姿花伝』です。「序破急」はもちろん、7歳から年代順に稽古の要領を具体的に記した「年来稽古條々(ねんらいけいこのじょうじょう)」、それから、演じていく上であらゆる人物や動植物の姿、本質を徹底的に研究し、観客の心に届かせる「物学條々(ものまねのじょうじょう)」など、盛りだくさんです。舞台芸術に関わる人なら必読の本であるだけでなく、人を育てる上での教育哲学、人生論の話にも繋がってきて、あらゆる人に実践的な本だと思います。約600年前に書かれながらも、みずみずしさを失っていない。表現する上で、もっと言えば生きていく上で変えてはならない「核」のようなものが書き記されています。
「秘すれば花」という言葉も出てきますが、そもそも舞台の世界における「花」とは何か、そして、能における「幽玄」とは――。僕自身、年齢を重ねるなか、若い頃と今とでは「違う」ということを「自覚」はしつつも、自分に何ができるのか、花はあるのか、日々模索しています。
読みながら何度も思い出したのは、佐藤二朗さんのことでした。二朗さんは 4歳年上で、僕とは何度もドラマでご一緒し、長年お世話になってきました。僕自身、いわゆる「モデル上がり」の役者。長らく自信を持てなくて、不安と戦ってきました。そんな折、二朗さんの出演したドラマ『ブラック・ジャック2』(2000年)を見た時に、衝撃を受けたのです。「こんな役者さんがいるのか!」。無名の医師役で、しかもワンシーンだけの出演だったのに、ものすごく強い印象を残しました。
この出演をきっかけに、制作陣の目に留まり、二朗さんは俳優としての地位を着実に築いていきました。二朗さんって、演劇では昔からずっと第一線で輝いていますし、何度も主演の舞台を見に行かせていただいたこともあるのですが、いっぽうで映像の世界では、どちらかというと「脇を固める」、もしくは「コメディ担当」といった印象が強いと思います。
ところが昨年の映画「爆弾」で二朗さんは「日本アカデミー賞」最優秀助演男優賞に輝き、これによって一気に空気が変わりました。これが、50代になってこその、世阿弥が言うところの「花」なのか。人生に季節があるとしたら、どの季節に花が咲くのか、誰にもわかりません。『風姿花伝』では幼少期、少年期、青年期、それぞれの美点や課題点がありつつも、大器晩成していく流れで説明がなされていますが、それともまた異なる文脈で、「佐藤二朗的のような咲き方もあるなあ」と僕は思っています。
能や狂言の世界では、主役として演技をする人のことを「シテ(仕手、為手)」と呼びます。どんなに優れた「シテ」が舞台に立ったとしても、観客側に「シテ」の良し悪しを見分ける眼力がなく、その面白さに気づくことができなければ、良い舞台とはなりません。古典芸能は現代人の僕たちにとっては言葉からして難解で、実際いま僕自身にその眼力があるか、と言われると自信が持てません。ただ「舞台は、演者だけで成立している世界ではない」ということは、僕にもわかります。
そのことは、この本の中では「陰と陽」「昼と夜」の例を挙げながら詳しく書き記されています。不思議なもので、マチネ・ソワレ(昼・夜の公演)によって、「昼のお客さんの方が反応が良いよね」なんて経験は多々ありますし、その逆もあります。「今日の回、なんかイマイチだったね」と思った日の舞台が褒められることがあれば、逆に「よかった! やり切った!」と満足した舞台がイマイチの反応なこともある。「力いっぱいやれば良い」というものでもない。
そのうえで、演じる側ができることとしては、「強い者」を演じる時には緩急をつける。強さを出しつつ、弱い面も演じる。上半身で大きく動く時には、足はひたひたと静かに。強さを表すのでも、フォルテッシモ、ベタ踏みではなくて、弱い部分を併せ持つことによって効果的に強さを表現していく。あるいは老いを演じる時は、上半身は弱々しく動きつつも、足はバタバタと強くして拍子をちょっとずらし、体の自由が利かない感じを出していく。
または悲しい時、ただ悲しみに暮れるのではなく、それを抑えてこそ、観客は裏にある想いを感じてくれる――。この本は、日本のみならず世界の演劇人、舞台人、そしてそれ以外の方にとっても普遍的な価値があると思います。
五十有余
この頃からは、おおよそ「しない」という以外手立てはあるまい。「麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣る」とある。とはいいながら、まことに能を得た達人であれば、演じられる曲目がほとんど失せ、良きにつけ悪しきにつけ見所が少ないといっても、花だけは残るものである。
父、観阿弥は、五十二の年、五月十九日に亡くなった。その月の四日、駿河(するが)の国、浅間(せんげん)神社の法楽(ほうらく)に能を奉納したが、この時の申楽はことのほか花やかで、見物衆上下一同ほめたたえたものである。およそこの頃、演目はあらかた若手に譲ってしまい、自分はやさしい所を少な少なと色添えて演じただけだが、花はいや増しに見えたものである。これこそまことに得た花ゆえに、能楽に枝葉なく老い木になるまで、花は散りもせず残って咲いたのだ。これが目の当たりにした老骨に残る花の証であった(『現代語訳 風姿花伝』年来稽古條々より)
いま54歳の僕自身、「花」を残し続ける鍛錬ができていたのか。特にここ数年は映像のブランクがあり、不安がないと言えば嘘になります。ただ、芝居の鍛錬って、舞台や映像での場数を踏むだけなく、日々の生活の中で物事の機微を捉え、人を観察し、社会にアンテナを広げ森羅万象を受け取る作業をしているか、だとも思っています。そこを意識して生きてきたつもりではありますが、ちょっと怖くもある。そんな自分自身を再点検する意味で、何度もじっくり読みたい。また、いろいろな方にも読んでいただきたい本だと思います。
中沢新一さんの『精霊の王』(講談社)は、芸能の守護神・宿神(しゅくじん)を通して、日本文化の深層を照らし出しています。宿神は摩多羅神(まだらじん)とも、猿楽の「翁」として表現されたものともされ、その本質に迫る力強い論考です。能の背景にある日本人の自然観や、古代からの精霊信仰の息吹を深く知ることができる一冊です。(構成・加賀直樹)