澤村伊智「ざんどぅまの影」 憎しみを怒りによって正当化し、正しさに酔ってそこから抜けられなくなる人の心と向き合う(第39回)
澤村伊智の魅力はその複合性にある。
すでにこの世にある材料を複数合わせて使うことによって、誰もがまだ見たことのないものに仕上げていく。その錬金術のような創作法に魅せられるのである。澤村作品を読むとき、今回はどのように驚かされるのだろうか、という期待と共にページを開く。驚かされるといっても、道端でいきなり大声を掛けられるようなこどもじみたやり方ではない。そういう驚かし方があったのか、という予期せぬ仕掛けが作中には施されているのである。澤村伊智の独自性はそういうところにある。罠の発明家、とでも呼ぶべきか。
最近になって澤村は2冊の新作をほぼ同時に上梓した。版元は共にKADOKAWAで、単行本形式で『ざんどぅまの影』、角川ホラー文庫のそれは『ととはり屋敷』という連作短篇集である。両作とも、澤村がデビュー以来書き続けている〈比嘉姉妹〉シリーズだ。
シリーズものだからといって敬遠する必要はない。ここから読んで構わないような作りになっているからだ。琴子・真琴の比嘉姉妹には強い霊感があり、怪事件が彼女たちによって解決される、というのが非常に大雑把なシリーズの骨子である。琴子と真琴がそうした霊能力者として知られる前の前日譚、というのが『ととはり屋敷』に収録された諸作だ。そして『ざんどぅまの影』はさらに遡り、ふたりの祖母にあたる比嘉勝子を中心とする物語である。ここでは『ざんどぅまの影』についてご紹介する。
少し変わった叙述が用いられている。佐久間篤という男性が1981年8月に始まる自身の体験談を話しているという形式だ。ただしそれを別の人間の身体を借りて語っている。2020年1月から2021年11月にかけて、霊媒師である比嘉琴子が行った降霊術にこの佐久間篤が現れ、彼女の口を借りてそれを語ったのだ。回顧譚がどうしてこんな変わった形をとっているのか、という疑問は頭の隅に置いて読んでもいい。
舞台となるのは海辺が近い、P市Q区という土地である。1981年の篤は23歳、18歳で預けられていた伯父の家を飛び出し、あちこちを転々とした後にこの街に辿りついた。篤は酷い風邪を引き橋の下で死にかけていたところを、下井田恭介という男性に助けられたのである。以来1年間、Q区に住み着いて夜は居酒屋「あさか」で働き、早朝には新聞配達、という生活を続けている。
工業地帯であるQ区の港から見える海はお世辞にも綺麗と言えるものではなく、工場廃水によって汚染されていた。環境問題が国家の解決すべき重要課題として国際世論で重視されるようになり、本腰を入れて取り組まなければならなくなるのはこれよりずっと後のことだ。汚い海、臭い海だが篤にとってはやっと手に入れることができた、第2の故郷のような眺めなのである。
篤と並んで海を見ていた、同い年の赤嶺は言う。
「まあでも、いい景色だな。くせえけど」
薄汚れた景色に否定できない愛着を感じてしまう、という昭和期の心情は、浄化の進んだ令和期のそれとは少し異なるものであろう。この短い会話でまず時代性を切り取ってみせてから澤村は本来の恐怖物語を始めるのだ。
深夜、「あさか」から帰宅しようとしていた篤は、何者かに後をつけられていることに気づく。背後から漂ってくる「熱や重さを感じられるほど強く、濃」い「磯臭さと腐臭」は、そのものが人間ではないことを示唆していた。篤の脳内に「全身ずぶ濡れで」皮と肉が腐って剥がれ落ち服の中にもほとんど骨しか残っていない姿が浮かぶ。
そのものに首筋を触られるが、夢中で駆けだして逃げることに成功した。さらに夕方、「あさか」にやってきた客から、常連のひとりが菱尾という男性がアパートの自室で不審死を遂げたことを知らされるのである。推定死亡時刻は篤が怪異と遭遇していた頃合いとちょうど重なる。警察に事情聴取をされてもそのことを話せなかったために、彼はしばらく嫌疑を掛けられることになる。
菱尾の死に方は奇妙なもので、全身が、いやそれどころか部屋全体が塩水でびしょびしょに濡らされていたらしい。発見者が異変に気付いたのも、水漏れというよりその異常な磯臭さを感じ取ったからなのだ。この後、死因は溺死であったことが明かされる。大量の塩水が体内から湧き出して、それによって殺される、というのが『ざんどぅまの影』で描かれる怪異である。
ここまでの情報で関心を持った方は、もう読み始めていいと思う。一気呵成の読書体験は保証する。もう少しだけ作品について知りたいという方だけ以下は読んでいただきたい。
篤が警察から疑いの目を向けられたのは、彼が街の余所者だからだ。街に何かがあれば流れ着いた根無し草がまず疑われる、というのは世の常だろう。しかし同じような差別の視線、排除の論理がもっと大きな規模で働いてしまう。
びしょびしょの化け物による犠牲者は次々に増えていく。物語の序盤に登場し、読者に好感を持って受けとめられていたであろう人物も殺される。恐怖に駆られ、やり場のない怒りに震える者たちは、自ら身を守ろうと行動を起こす。自警団が組織されるのだ。
序盤で、P市Q区が工業地帯として急速に発展したため、慢性的な人手不足に悩まされていたことが書かれている。その穴を埋めたのが沖縄からの移住者だった。しかし元からの住人の中には余所者が増えることを快く思わず、街の一員として迎えることを拒絶する者もあった。そのため沖縄出身者は、自分たちだけで集まって暮らすことを余儀なくされたのである。そうした地域はP市Q区だけではなく、多くの都市に存在する。
最初に移住が行われてから子や孫の世代に交替が進み、今では街の中に沖縄出身者も溶け込んでいたはずだった。しかし、びしょびしょの化け物が現れたのはあいつらのせいだ、という風説が流れてしまう。あいつら、沖縄の奴らだ、という根も葉もない噂だ。異変の初期、犠牲になったのはすべて沖縄出身者ではない、本土の人間だったからである。それを裏付ける証拠とされるものも「発見」される。題名にある〈ざんどぅま〉という不思議な語感の言葉はそこに由来する。
『ざんどぅまの影』という題名からホラー読者が連想するのは、H・P・ラヴクラフトの「インスマスの影」だろう。太古の怪物が蘇って海の底からやってくる、というイメージを澤村は借景として物語に採り入れている。そこに重ねられているのが「あいつら」への攻撃を肯定する現代人の心性だ。自警団の者たちの心に、怪物を招き寄せる沖縄出身者への憎悪が掻き立てられていく。自警団を率いる省三という青年は言う。
「もう誰も殺させない。苦しめない。怖がらせない」
「俺たちがやるんだ。自分達の手で敵を取るんだ」
相手を殺すのは自衛のため、犠牲になった者の敵を取るため。虐殺が繰り返されるたびに唱えられる自己正当化の論理だ。『ざんどぅまの影』で描かれる怪異は恐ろしいものだが、その上に攻撃の狂気が重ねられることで救いようのなさが増す。篤も省三に誘われてこの自警団に入る。
——どいつもこいつも怪しい。あいつもあいつもあいつもあいつも怪しい。沖縄人は全員怪しい。犯人だ。そうでなくても犯人と繋がっている。
そう、誰かが言っていました。
私もそう思いました。
この、「私もそう思いました」という一言のために本作の回顧譚形式は用いられている。自らの憎しみを怒りによって正当化し、正しいということに酔ってそこから抜けられなくなる人の心を内側から叙述する必要があったのだ。
ここまでは物語の骨組みとも言うべき構造で、ここにジャンル小説ならではの捻りが加えられている。ホラーには「最も恐ろしいのは人間の心だ」という常套句がある。どんな怪異よりも他人を憎む普通の人間の心が恐ろしい、という紋切型に頼れば物語は陳腐なものになる。澤村は本作で、発動した怪異がそうした構図に回収されないよう周到に配慮を重ねている。人の心を超えた運命の皮肉さを〈ざんどぅま〉発現のメカニズムに採り入れているのである。何がいちばんの恐ろしいものだったか、の答えは読者それぞれが考えるべきものとして残される。読後に残る胸の哀しみと共に。
澤村はミステリーの技法をホラーの中で用いる達人である。本作でも終盤、事態が収束に向かう段階においてそれがいかんなく発揮されている。ミステリー技法の何を使ったか、ということは伏せておく。真相がわかったときに、あいつが犯人だ、何もかもあいつらのせいだ、と決めつけて自分が安全圏で他人面をするのは許されないような構造になっている、ということだけは書いておく。
本作が比嘉姉妹シリーズの1冊として数えられるのは、前述したように祖母である比嘉勝子が登場し、沖縄の巫女・ユタとして事態に関わるからである。ここを出発点とし、改めて第22回日本ホラー小説大賞(現・横溝正史ミステリ&ホラー大賞)を受賞したデビュー作にしてシリーズ第1作『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)を読み始めるのもいいだろう。シリーズの多彩さに、こんな作家がまだ直木賞の候補にもなっていないのか、と驚かされるはずである。
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