小説家・小林恭二が帰ってきた。三島由紀夫賞を受けた「カブキの日」、人間の欲望と狂騒を大仕掛けで描く「ゼウスガーデン衰亡史」などで注目を集めた作家の、17年ぶりの新作小説は「三鬼」(講談社)。戦争の影が迫る日本とシンガポールを、新興俳句のカリスマ、西東三鬼(さいとうさんき)が駆け抜ける。
物語の舞台は昭和15(1940)年。俳誌「京大俳句」の同人たちが、治安維持法違反容疑で検挙された年だ。自身も常に尾行される身となった三鬼はある日、ダンスホールに夜な夜な現れては誰とも踊らずに過ごす「踊らずの娘」と出会う。
「昭和15年という年に興味があった」と小林さんは言う。
「我々はその後を知っているから、破滅に向かう暗い時期だと思ってしまう。でも実際はまだ対日石油禁輸もハル・ノートもなくて、いろいろな可能性がある時期だったと思うんです」
物語は史実にフィクションを織りまぜて語られる。ときにスパイ映画のように、ときに探偵小説のように展開するストーリーに「こんなこと本当にあったのか」と読者は目をみはるだろう。「こんなのうそだよねってところは本当で、本当っぽいねってところはうそ」と、作家はけむに巻く。
変幻自在の筆致で描かれる三鬼は、クールで女性にもてる「中年ドンファン」。あるときは優しく、あるときは軽薄で、つかみどころがない。権力の脅しもどこ吹く風の三鬼は「トリックスターなんですよ」と小林さん。読者は三鬼の背を追いながら、時代の気配を肌で感じていく。
物語の終盤、いよいよ自身の身が危ういと知りながら、三鬼が仲間たちと海辺で過ごす場面は、青春を燃やしつくす最後の輝きのようで、胸に迫る。「先のことはわからないけど、今だけは好きに遊んで、好きなこと言うよっていう、その感じを書きたかった」
「俳句という愉しみ」(岩波新書)など俳句・短歌関連の著作も多い小林さんだが、小説家としては長く沈黙してきた。
「20代で作家デビューして、20年書いて、へとへとだった。大学で教えるようになって、そちらも忙しいから、もう小説はいいかなと思ったり」。けれど、編集者に背を押されて書きはじめた今回の小説は「すっと書けたんですよ。あれだけ1行1行が重たかったのに」。
かつての疲れが抜けたということもあるけど、でもそれだけじゃない、と言う。
「昭和15年を書いたこの小説は、10年前だったら書かなかったし、書けなかった。やっぱり今の時代の気配が、この小説を後押ししたんじゃないか」
トリックスターは不穏な時代にこそ輝きを放つ。令和のいま、私たちは心のどこかで、新たなトリックスターの登場を待っているのだろうか。(編集委員・柏崎歓)=朝日新聞2026年7月22日掲載