茶を愛飲しているため、歯に茶渋がつきやすい。三ケ月おきくらいに歯科医院で歯のクリーニングをしてもらっている。口の中が粉だらけになったり、恐ろしい音が響いたり、唾液(だえき)を吸いあげられたりと、無防備で屈辱的な一時間を過ごす。
担当の歯科衛生士さんは毎回、「お茶、やめられませんかね」と訊(き)いてくる。「無理ですね」と答えると、「では、せめて飲んだ後に水で口をゆすいでください」と懇願するように言う。そんなことをしたら茶の余韻が台無しである。そもそも、茶に切れ目はない。仕事をしながら常に飲んでいる。その状態を「だらだら飲み」と歯科衛生士さんは命名した。歯に大変良くないという。仕事をしながら茶を飲んでいるので、決してだらだらしているわけではないから、やや不本意なのだが、歯の立場からしたらそうなのだろう。
今年に入ってから、歯科衛生士さんが「どうしてこんなに汚れるのが早いのかわからない」と言いだした。茶のせいだけではないと疑っているのである。「まさか『ながら磨き』をされていないですか?」と新しい言葉がでた。他の行動をしながら歯磨きをすることを指すそうだ。
している。しかし、他の行動というか、ぼーっとしながら歯を磨いている。ソファに座って猫を撫(な)でたり(うちの猫は歯ブラシの柄の匂いが好き)、どうでもいい動画を眺めたり、あらぬ場所に立って虚空を見つめたりしながら。「いけません」と歯科衛生士さんは言った。鏡の前で歯の一本一本に向き合いながら集中して磨いてくださいと注意された。
かくして、ながら磨きが禁止された私は鏡の前で歯を磨くことになった。結果、「いままでで一番汚れが少ないです!」と歯科衛生士さんが初めて晴れやかな顔を見せてくれた。
嬉(うれ)しい。しかし、歯磨きに疲れを覚えるようになってしまった。正直言って自分の歯に向き合いたくない日だってある。ぼーっと無になる「ながら磨き」はストレス発散の一つになっていたようだ。=朝日新聞2026年6月24日掲載