スマートフォンや携帯電話は通信機器であるはずなのに、私は音声通話に使うことがほとんどない。あまりに電話をしないため、呼称に対しての罪悪感にかられて「ケイタイ」と呼んでいるような気がする。
掌(てのひら)サイズの薄い板を「ケイタイ」し、何に使うかといえば、家族や友人とのメッセージのやりとり、ネットでの調べもの、SNSの閲覧や投稿、たまに飛行機や観劇といった電子チケットの購入、そして、写真の撮影だ。誰とも連絡をしない日でも撮影の機能は使う。私は食べた物の記録を画像で保存しておきたいので、朝の茶からご飯、おやつ、寝酒に至るまで、とにかく撮っている。飲み食いしたものを全て日記に書いているときりがないからだ。自分は通信もできるカメラを「ケイタイ」して日々を過ごしているのだなと思っている。
三年前、小さな家族と呼ぶ十歳の猫と暮らし始め、飲食物に匹敵する量で猫の写真が保存されるようになった。朝昼晩で変わることのない猫を、やれ寝相が変だ、やれ膝(ひざ)に乗った(毎日乗るのに)と撮影する。猫の寿命を考えると、あと十年も一緒にいられない可能性が高い。そう思うと、なんとか記録しておきたくなる。あとで、匂いや肌触り、声を思いだせるように。いや、失わないように。しかし、いくら撮っても足りない気持ちが拭えない。
先日、イラストレーターの坂本千明さんが我が家の猫を紙版画にしてくれた。その絵を見た瞬間、涙がぼろぼろとこぼれた。私の小さな家族が額の中にいた。ちょっと広めの額も、ひょうきんな眉も、目尻も、口のまわりのほんのりオレンジの毛もそこにあった。なにより表情がいつも見る彼だった。ここにいる、と思った。いつか離れ離れになる日がきても、ここに彼がいたことは失われないのだと感じた。泣く私を本物の彼が不思議そうに見上げていた。
絵を描く人は膨大な瞬間を凝縮して一枚に閉じ込めるのかもしれない。それは一瞬を切り取った写真とはまったく違うものなのだ。=朝日新聞2026年5月27日掲載