「清と斑(ぶち)とは世に頼る蔭(かげ)なき寂しい身の上である」
これは、とある物語の冒頭部分。これだけでなんの物語かわかる方は少ないだろう。続きを読んでみよう。「斑はベルギイの片田舎フランダース州の産(うまれ)である」。もしかして? そう、斑はパトラッシュ、清はネロ。『フランダースの犬』の翻訳版なのだ。
この明治41年の日高柿軒訳を紹介した鴻巣友季子氏によれば、当時、固有名詞を日本名にするのはよくあったとのこと(『明治大正 翻訳ワンダーランド』)。後に、アニメ版が一世を風靡(ふうび)するこの名作は、明治の時代から日本で愛されてきたのだ。
貧しい少年ネロは、祖父と愛犬パトラッシュと暮らし、牛乳運びで家計を支えている。絵を描く才能に恵まれたネロだが、貧しさのため絵の勉強をすることはできない。幼なじみのアロワとは仲がよかったものの、彼女の父親に身分違いだと引き離される。
そんな中、ネロは絵のコンクールで優勝することにすべての望みをかける。絵の具を買うお金もないネロは、画用チョークで白と黒だけの絵を仕上げる。しかし、裕福な家の子が描いた、おそらくは色鮮やかな絵に負けてしまうのだ。あとから有名な画家がやってきて、ネロの才能を認めて育てたいと言うが、もはや手遅れだったことは、多くの方がご存じだろう。
「絵のなかに、これから伸びるすばらしいもの」があると、見る人が見ればわかる、ということに、子供のころ妙に感動したのを覚えている。たとえ白黒でも、コンクールのような公の場で認められなくても、本物なら、わかってくれる人が現れる。それはすてきなことに思えた。
だから、結末は悲劇的だけれど、不思議と納得感があった。ネロは最後、崇拝するルーベンスの絵を見て、「これで十分です!」とさけぶ。彼もまた、本物がわかる少年だったのだ。
本物とはなんだろう。認められるとは限らないらしい。でも、必ず気づく人はいる。名作は子供心に本物への憧れを植えつけたのだ。
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野坂悦子訳、岩波少年文庫・814円。イギリス生まれの作者(1839~1908)は子どものための物語など、生涯に45の小説を書いた。本作は明治末期に日本で紹介され、絵本やアニメにもなった。=朝日新聞2026年8月1日掲載