1. HOME
  2. インタビュー
  3. 時代のしるし
  4. 50年前、「日本型選挙」に密着 ジェラルド・カーティス「代議士の誕生」

50年前、「日本型選挙」に密着 ジェラルド・カーティス「代議士の誕生」

写真・飯塚悟

 日本の政治を研究するきっかけは、大学院の外交のゼミで日米関係を研究したことです。日本語を勉強して、1964年に初めて日本に来ました。東京オリンピックが始まる前で、高速道路や新幹線が造られて、街は活気にあふれていました。僕はニューヨークの下町・ブルックリンの生まれ。東京には浅草があると聞いて行ってみたら、家に帰ったような感じでした。ざっくばらんで素朴で。日本が面白くて、研究するようになりました。
 50年前の政治学の理論は、全部西洋の国々の研究から出てきた。それが日本にもあてはまるのか疑問でした。博士論文を書くため、まず日本の政治の実態を見て、それを理論づけようと考えました。
 66年に中曽根康弘さんを通じて、当時、大分2区で衆院議員を目指していた佐藤文生(ぶんせい)さんを紹介されました。中曽根さんは外国人の学者に親切で、学者によく会ってくれる政治家でした。中曽根さんが「東北や鹿児島だったら、方言を覚えるのが無理。大分県の別府なら、それほど標準語から離れていないから」ということで、佐藤さんの所に行きました。
 でも、大分の田舎に行くと何を言っているのか、全くわからない。佐藤さんの息子に大分弁を教わって、1年したら「世界で唯一のブルックリンなまりの大分弁をしゃべる人間」になりました。

何をしたいか、政治家はパッション持って

 67年の衆院選まで佐藤さんといろんな所を回った。世話人の家に泊まって話を聞くなど、何でもオープンに見せてくれた。
 ある山の町に行くと、選挙参謀が私にカバンをくれて、「この中のものを渡してください」と。中には100円札がいっぱい。町を回って、100円札が3枚入った封筒を「文生さんをよろしくお願いします」と言って渡しました。
 佐藤さんは、僕のことを信用してくれていたんだと思います。それに、アメリカの大学の博士論文なんて、宇宙のほかのところのもののように考えていて、それが日本語になるなんて想像もしていなかったと思う。僕も、本当に困るようなことは書かなかった。さっきのカバンを持っていったことは書いていません。
 論文は、日本のことを知っている先生たちには「今までにない研究だ」と高く評価されました。理論重視の先生にはちょっと冷たい人もいましたけれど。
 論文が日本語に訳されて出版されると、反響が大きかった。新聞の政治部の記者や政治家もよく読んでくれました。選挙のマニュアルとして使った政治家もいました。日本の政治にある程度影響を与えられたと思います。そのことはうれしいですね。
 選挙制度の変化と市町村合併で50年前にあった集票マシンは崩れました。日本の政治の文化も変わった。よく言えば合理的に、ドライになった。悪く言えば、政治が面白くなくなった。今は「政策通」という政治家が多いけど、政策が好きなら官僚になりなさい、と言いたい。政治家はまず、選挙民の悩みや希望を聞いてそれに応える努力をしなくてはいけない。昔の政治家、特に「党人派」と言われた政治家にはそういう人が多くいました。
 今の政治は首相官邸に権限が集中して、強すぎる。チェックとバランスの機能が果たせていない。野党も弱い。自分たちが政権を取ったらどんな政治をするのか、という話がなさ過ぎる。
 参院選はどうなるでしょうか。一人ひとりの政治家は、当選しないと何もできないけれど、当選することだけを目標にするのは情けない。政治を一生懸命にするパッション(情熱)がないと、政治の質は落ちる。政治家として何をやりたいのか。そのことをよく考えて、訴えなければならない。そして、選挙民は投票でどういうメッセージを政党や政治家に伝えるのか。そのことをよく考えてほしい。(聞き手・藤井裕介)=朝日新聞2016年6月22日掲載