cero高城晶平さんが選ぶ5冊 スピノザからベンヤミンに誘われ、ありえた世界の可能性を求めて
――今回はどのような本を選んだのでしょうか。
哲学書が2冊、小説が1冊、それから詩とも小説ともつかないような本が1冊です。普段から何冊か並行して読むことが多いですね。
まず、ここ数年ずっと興味を持っているのが17世紀の哲学者スピノザです。きっかけは、國分功一郎さんの『中動態の世界』(新潮文庫)でした。そこから少しずつ関連書を読み続けていて、最近になって上野修さんの『スピノザ考』にも挑戦しました。
最初に立ち読みした時は「これは絶対分からない」と思ったんですが、いろいろな本を経由して戻ってきたら、以前よりずっと理解できるようになっていて。今も少しずつ理解を深めている最中です。
僕の場合、「生きる上での方法」を考えさせてくれる哲学が好きなんです。スピノザは神についての抽象的な話から始まるので最初は難しいんですが、その先に人間生活の話がある。神秘と科学、生活と神々の世界のあいだを行き来するような感覚があって、そこにすごく惹かれます。
――今の生活と重なる部分はありますか。
一番大きいのは「受動」と「能動」の話ですね。人はまず受動から始まる存在なんだという考え方です。
この前、映画「魔女の宅急便」を見返した時も、すごくスピノザ的だなと思ったんですよ。キキは最初、魔女の血筋という受け継いだ力で飛んでいる。でも途中で「自分とは何か」を考え始めた途端に飛べなくなる。受け取った力を、自分の意志による力へと変えようとした瞬間に壁にぶつかるんです。
スピノザは、この必然しかない世界の中で自由や能動性とは何かを考え続けています。最初は厳しい決定論に見えるんですが、読んでいくと不思議と希望のある思想に思えてくる。その感覚にすごく惹かれます。
――哲学を好きになったきっかけは何かあるんですか。個人的に、高城さんは、ヴァルター・ベンヤミンがお好きではないかなという印象があります。
ベンヤミンは好きなんですけど、実はスピノザほど読み込めてはいないんです。きっかけはベン・ラーナーの小説でした。『10:04』(白水社)という作品の冒頭に、ベンヤミンの「歴史の天使」が出てきていて。そこから興味を持つようになりました。
哲学そのものとの出会いでいうと、大学時代の授業が大きかったですね。僕は日本大学芸術学部の演劇学科だったんですが、文芸学科の先生が担当していた哲学の授業にすごくハマったんです。本来なら取らなくてもいい授業だったのに、そっちばかり出てしまうくらい好きで。演劇の単位が足りなくなってあやうく卒業できなくなるくらいでした。
その後は音楽を始めて、しばらく本から離れていたんですけど、大人になって、子どもが生まれた頃にふと「あの授業で紹介されていた本、読んでみようかな」と思い出して。哲学を本格的に読み始めたのは、むしろそれからなんです。
――今回持ってきてくださった『トピーカ・スクール』もベン・ラーナーですね。
そうですね。彼もアン・カーソンと同じで、もともとは詩人なんです。詩人が書いた小説が高く評価されたという意味では共通しています。『10:04』が本当に好きだったので、この『トピーカ・スクール』も読まなきゃと思って手に取りました。ここ数年読んだ小説の中でもかなり好きな一冊です。
僕は海外文学をよく読むんですが、この作品はとにかく登場人物が多い。読んでいてメモを取らないと追いつけないくらいです。最近になってようやく、読書中にメモを取る習慣がついたんですけど、それで解像度がかなり上がりました。
――ロシア文学みたいですね。
本当にそんな感じです。この作品なんて30人以上名前付きの人物が出てくるんですよ。しかも、1回しか登場しない人物にもちゃんと名前が与えられている。だから「この人また出てくるのかな」と思ってメモすると、その1回で終わりだったりして。でも、それくらい一人ひとりに実在感がある。
――どんな物語でしょうか。
群像劇なんですが、主人公の一人は高校生のディベート選手です。全米高校生ディベート大会のような世界が舞台になっていて、そこがすごく面白い。
今のラップバトルとも通じるんですが、「スプレッド」という技術があって、とにかく大量の論点を高速で投げつけるんです。相手がそれに対応している間に勝ってしまう。内容よりもテクニックが重視される世界なんですよね。主人公もそのスタイルを得意としているんですが、物語が進む中で「それは本当に議論なんだろうか」と疑問を抱くようになる。最終的にはそのやり方を捨てて、正面からディベートに向き合うんです。
一方で、彼らが育った特殊な教育環境の話も並行して描かれるし、ある若者たちのパーティーで起きた事件も物語の軸になっている。同じ出来事がさまざまな人物の視点から語られていくので、一つの歴史が複数の見え方を持っているような感覚になるんです。
――海外文学をよく読んでいますが、登場人物に感情移入するタイプですか。
それが、あまりしないんですよね。むしろ僕は感情移入が少し苦手なのかもしれない。日本の小説がなかなか読めない理由もそこにある気がします。言葉が近すぎるんです。ニュアンスまで全部分かってしまうから、読んでいて距離が近すぎる。それより、むしろ少し拒絶されているくらいの方が読みやすいんです。
――拒絶されるくらい。
翻訳文学って、一度翻訳を通している分、どうしても少しチグハグになるじゃないですか。文化的な背景も違うし「これはどういうことなんだろう」と立ち止まる瞬間がある。でも、そのノイズが僕は好きなんです。完全には理解できない感じというか。そういう距離感の方が、なぜか読めるんですよね。
――それは音楽制作にも通じる部分がありますか。
あるかもしれません。僕、自分の体験をそのまま歌詞にすることってあまりないんですよ。もちろん中学生のころには、スピッツを聴きながら「この歌詞、自分のことだ」と思ったりもしたんです。でも自分が書く側になると、少し距離を置きたくなる。直接的な自己表現にはあまり興味がないのかもしれないですね。
――では、歌詞のインスピレーションはどこから得ることが多いのでしょう。
やっぱり本ですね。小説でも新書でも関係なく、「これは使えるな」と思う言葉が出てきたら、とにかくメモするんです。
たとえば最近読んでいる本の中に、「グロブスター」という言葉が出てきたんですよ。海岸に打ち上げられた正体不明の巨大なもののことらしくて、多くはクジラの死骸なんだけど、そういう言葉が大好きで。知らない単語や、妙に引っかかる表現を見つけると全部メモしておいて、いつか使うかもしれないと思ってストックしています。
――ceroの曲のタイトルや詞も、最近はSF的なイメージや概念が増えている印象があります。
それはあるかもしれないですね。例えばアルバム「e o」(2023年)の最後の曲「Angelus Novus アンゲルス・ノーヴス」は、ベンヤミンの歴史観をかなり直接的に歌詞に取り入れています。
「e o」はSF的なイメージを扱った作品でもあるんですけど、アルバム全体を振り返った時に「これは歴史についての作品なんじゃないか」と思ったんです。記憶や歴史とは何か。その問いを最後にまとめる一曲として、ベンヤミンの考え方が自然と浮かんできました。
――「e o」は歴史を軸に作られた作品とのことですが、高城さんにとって歴史とは何でしょうか。
いや、それはすごく大きな問いですよね。哲学者が考える歴史なのか、自分自身の記憶の底にあるようなローカルな歴史なのかでも全然違う。
「e o」を作っていた頃に考えていたのは、いくつか別々に読んでいた本が頭の中でつながった結果なんです。一つは量子力学の本でした。量子力学では、複数の可能性の中から一つの結果へ収束していくという考え方がありますよね。一方で、ベンヤミンの歴史観というのは、その収束した結果よりも、むしろ消えていった無数の可能性の方に目を向けているように思えたんです。
――可能性の方に。
歴史というのは、最終的には勝者の歴史として語られるじゃないですか。勝った人の視点から過去を振り返って「こういう流れで今に至りました」と一本の線として整理される。でも実際には、その背後に無数の敗者がいて、実現しなかった可能性が転がっている。ベンヤミンはそういう失われた可能性を救済しようとしているように感じるんです。
その感覚が、「新しい天使(アンゲレス・ノーヴス)」というイメージと量子力学の考え方と、自分の中で不思議につながった。もちろん、そのまま説明すると少しオカルトっぽく聞こえてしまうかもしれない。でも、それを表現できるのは歌や詩の世界なんじゃないかと思ったんです。
――無数の可能性やパラレルワールド的なものに惹かれている印象があります。
それは僕だけじゃなくて、今の時代全体にある感覚かもしれないですね。
異世界転生ものが流行っているじゃないですか。「この世界ではうまくいかなかったけど、別の世界では活躍できる」という物語が支持されている。それだけ多くの人が「別の可能性」に希望を見出しているんだと思います。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。でも、生きるための方法として考えるなら意味はある気がするんです。実際に別世界が存在するかどうかは別として、「別の可能性もあったかもしれない」と想像できること自体が、人を少し救うこともあるんじゃないかと思います。