大澤真幸が読む
この連載(大澤担当分)の第一回としては、この本以外には考えられない。ここ二百年間に出た人文社会系の本の中で最も重要な本、『資本論』。フランスの哲学者デリダは、マルクスを読まないことは常に過失となる、とまで言っていた。
『資本論』は三部に分かれていて、マルクスが存命中に出されたのは第一部のみ。後の二部は、マルクスの没後、盟友のエンゲルスが草稿を編集したもので、特に第三部は未完成感が強い。
まずはっきり述べておく。『資本論』は経済学の本ではない。マルクス自身の語彙(ごい)を使えば、「経済学批判」。私たちが「経済」と呼ぶ現象を一部に含む人間的・社会的なプロセスのすべてが説明されている。
一例を挙げよう。冒頭の商品論の中に価値形態論という有名な箇所がある。物々交換から貨幣が生まれるまでを描いているかに見えるが、さにあらず。
最も単純な価値形態は、「x量の商品A=y量の商品B」という等式で表される。なんだやっぱり物々交換じゃんと思うかもしれない。だが物々交換や数学ならば左辺と右辺は対称的で、ひっくり返しても同じなのに、マルクスは左辺を相対的価値形態(価値を付与される側)、右辺を等価形態(価値の基準)と呼び分け、両辺の非対称性を強調する。どうしてか。
自分は左辺(相対的価値形態)の側だと思って読むとよい。「私」は一人では自分が何者なのか、自分の価値を確信できない。他者に承認されて初めて自分の価値を知る。その他者に当たるのが右辺の等価形態だ。やがて「私」は自分を認めてくれる他者を崇拝し、その他者に支配されるようになるだろう。貨幣は、この「他者」のように商品(の所有者)を支配する。
この論理は、人が政治権力に従う理由、神を崇拝する理由の説明にもなっている。『資本論』の含意をくみ取れば、資本主義は結局一種の宗教、無意識の宗教である=朝日新聞2017年4月16日掲載