瀬戸内海の、ある小島を訪ねたときのこと。船から下りて小さな船着き場を歩いて行くと、すぐ目の前に建つ古ぼけた食堂らしい建物の軒先に「たこ飯」という張(は)り紙を見つけた。その瞬間、私は「たこ!」と、声を上げた。後から聞くと、ほとんど絶叫に近かったらしい。
「ここ、たこ飯が食べられるんですね!」
ところが食堂は生憎(あいにく)その日、休みと見えて、ぴったり戸が閉まっている。私は慌てた。大変だ。是非とも島に滞在している数時間の間に、たこ飯を食べさせてくれる店を探さなければ。
春先のことだった。冷たい雨がしょぼしょぼと降っていて、小さな島には歩いている人影さえほとんど見当たらない。旅の目的は、別段たこ飯でも何でもない。それなのに私の頭はもう、たこで一杯になっていた。
「そんなにたこが好きなんですか」
「え、いえ、そんなこともないんですけどね。食べられると聞くと、やたらと食べたくなるんです、たこ」
「つまりそれって、相当に好きなんじゃないですか。だって、さっきからずっとたこたこ、言ってますよ」
「だから、それほどでもないんですってば。もしも、あれば。あればね、食べてみたいかなあと思う程度で」
「それ、好きなんですよ、たこが」
「そんなことありません」
不毛なやり取りを繰り返しながら取材に歩く間も「たこ」の二文字がどこかに見られないかと、ひたすらキョロキョロ。たまに島の人を見かければ、ためらうことなく声をかけて、たこ飯を食べさせてくれるところを尋ねた。だが、誰もが首を傾(かし)げるばかりなのだ。「たこ」ばかり繰り返すよそ者が、よほど不審に見えたせいかも知れない。中には「そんなものは、この島にはない」と言い切るお年寄りもいた。そりゃあんまりだ。胃袋はとっくに空っぽ。きゅうきゅうと切なそうにたこ飯を待っている。
「もう、たこの季節は終わったのと違うんかな」
もとの船着き場まで戻ってきたとき、ついにそう言われてしまった。その瞬間、瀬戸内海の小島でたこ飯を頰張るという私の淡い夢は、幻のように消え去ったのだった。
マジメに言うが、私は本当に自分がたこ好きなのかどうか、よく分からないのだ。だが、「たこ」の看板を見るとやたらと反応してしまう。中でも「たこ飯」だけは、どうしても食べたくなる。自分でも不思議で仕方がない。次はどこで看板を見かけるだろう。=朝日新聞2018年3月3日掲載
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