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歴史に学ぶ 次の戦争を起こさない責任

被爆71年を迎えた原爆ドーム。奥は式典が行われた平和記念公園=6日、広島市

 広島生まれの女優、綾瀬はるかが、自分の祖母をはじめ、広島、長崎から沖縄など各地で、すでに高齢となった戦争体験者の話を聞いた、『綾瀬はるか「戦争」を聞く』の中で、最も印象的なのは、婚約者が真珠湾攻撃に参加、撃墜されて死んだという八十六歳の女性である。
 取材班に同行して二〇一〇年、ハワイを訪れたこの女性は、まるでたった今恋人を殺されたかのように、米兵への憎しみをあらわにして綾瀬を当惑させる。まるで七〇年前で時間が止まったままのように。しかし、戦死した米兵のことを聞き、婚約者が墜落した場所に案内される内、「憎しみ」は「悲しみ」へ、そして「感謝」へと変わっていく。七〇年という時を、一日で生きる女性の姿は感動的であり、同時に体験を歴史に変えるにはどんなに年月が必要かを語っている。
 すでに戦争体験者の生の声を聞く機会は少なくなってきている。出版された証言やドキュメンタリーと進んで向き合おう。

複雑な顔を持つ

 「もういい加減、戦争責任の話はやめてほしい」と、うんざりした顔をする人は少なくない。確かに、今青春を迎えている人々にとって、遠い戦争の「責任」と言われても戸惑うばかりだろう。しかし、私たちは常に「次の戦争を起こさない責任」を負っているのだ。そのためには、かつて戦争がどのようにして起こり、人々はなぜそれを止められなかったのか、学ばなければならない。
 日中戦争から太平洋戦争へ、様々な大国の利害が絡み合う中、日本がどのように戦争への道をたどったか、加藤陽子氏が中高生に講義した記録である『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、歴史家としての冷静な視点の貫かれた本である。いま、中高生がこの本を読んで理解するのは容易でないと思うが、戦争とはそれほど複雑な顔を持っているのだということでもある。
 残念なことに、第二次世界大戦にかかわった国の中で、日本は今も侵略や虐殺の事実を認めようとしない人々が国の中枢部に多くいる「特殊な国」である。その特殊さはこの本に挙げられた、「捕虜の扱い」に見られる。ドイツ軍の捕虜になった米兵の死亡率が1・2%なのに、日本軍の捕虜になった米兵では37・3%に上る。自国の兵士をも使い捨てた国は敵国の兵士を人間扱いしなかった。その象徴的な事件が、「九大医学部生体解剖事件」である。捕虜の米兵を生きたまま解剖した(当然兵士は死んだ)この事件は、「戦争が医師をも狂わせた」出来事として知られる(『九州大学生体解剖事件』熊野以素著、岩波書店・2052円)。
 しかし、罪は戦争にあった、と本当に言えるのだろうか、と私は疑問に思う。あの東日本大震災での福島原発事故。放射能被害に対し、「心配ない」「大したことはない」と言い続け、被曝(ひばく)した子供たちへの影響まで、平然と否定する医師を見ていると、戦時下でなくても、医の倫理が失われることはあると思わないわけにいかない。

「芸術」からこそ

 反戦も反原発も、「人間への愛」に根ざしたものでなければ、国家という大きな力に勝てない。ロマン・ロランの『ピエールとリュース』をここに挙げたのは、第一次大戦下で、一組の恋人たちが戦火に押し潰されていく悲劇の中に、戦争の非人間性への真実の怒りがあるからである。愛する人を死なせたくない。その思いは文学や芸術の中からこそ生まれる。
 非戦の決意の土台を、若い日々に固めておくことが大切なのである。=朝日新聞2016年8月14日掲載