今世紀の初め、すでに書物の歴史には、日本についても、ヨーロッパについても、日本語で読める優れた本があった。そんな中、なかなか眺望の得られなかった書物大国・中国について『中国出版文化史』(井上進著)を編集・刊行できて、有頂天になっていた。これで世界の書物の歴史をすべて見渡せた気がしたのだ。
そのことを、イスラーム研究者の小杉泰先生に得意になってお話ししたところ、先生曰(いわ)く「大きな山を一つ忘れていませんか」。それが、漢字ならぬアラビア文字で記された、イスラーム世界の書物だった。
ショックを受けて勉強開始。だが読める本がない。これは自分でつくるしかない。ということで、また小杉先生にご相談。しかし山は予想を超えて巨大だった。
活版印刷が本格的に始まる以前には、中国とともに世界の書物の二大山脈を形づくっていたのだから、それも当然だ。その時代の写本(手書き本)を中心に、イスラーム誕生からデジタル時代まで、広大なアラビア文字文化圏をカバーし、美麗な文字や挿絵や装丁を論じ、聖典から歴史や科学にわたる書物について述べようとすると、とてもすぐにはできない。
林佳世子先生にご助力いただき、若い研究者が育つのも待って、最初の衝撃から10年ほどかかって出版できたのがこの本だ。以来、「真理の一部をその全体と思うなかれ」が座右の銘となっている(ただし、すぐに忘れる)。=朝日新聞2019年9月11日掲載