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「時代」を一緒に食べた友人 西木正明

  学生時代、探検部なる部活にはまりこんで、世界の辺境を徘徊(はいかい)した。

 以来食物(たべもの)に好き嫌いを言わなくなった。目の前にある物を食べないと、何日も食いはぐれてしまうからだ。

 知らない土地での食物探しも上達した。そういう立場から、和食しか食べられない日本人が海外に出て、一番安心できる国はどこかと問われたら、ラオスと即答する。なによりご飯がおいしい。日本米と同じく適度に粘りがあって食べやすい。

 ベトナム戦争最中の頃、米軍準機関紙「スターズ&ストライプス」の記者に誘われて、ラオスの奥地に入った。

 当時ラオスでは米国とソ連が覇権争いを演じていて、首都ビエンチャン郊外の空港には、輸送機や戦闘機などがひしめいていた。

 滑走路が敷かれているジャール平原のそこかしこに、空爆の跡や墜落した飛行機の残骸が散らばっていて、戦場にいる実感があった。

 そんな所に、新聞記者とはいえ、米軍将校でもある友人と入り込んだ。

 この友人とは筆者が学生時代、探検部の一員として、米ソ国境のベーリング海峡に面した、エスキモー集落で越冬した当時からのつきあいだった。

 あの頃彼は、アラスカ北西部のスワード半島一帯をカバーする、郵便飛行機のパイロット兼新聞記者で、週に数回、地域のエスキモー集落に郵便物の配達もおこなっていた。

 その彼が、ベトナム戦争が泥沼化した一九七二年二月、当時東京都心のアパートの拙宅に、忽然(こつぜん)と姿を現した。

「当分トーキョーとバンコクを行ったり来たりする」

 と言ってこの夜拙宅に泊まり、自分が何をしに東京に来たかを話した。

「今回自分は、副大統領スピロ・アグニューの命令で、ベトナム戦争の現状を正確に把握してこいと言われて来た」

 そして、ぼそりと言い足した。

「ベトナムが合衆国にとって、大日本帝国のパールハーバーになりつつある」

 筆者は驚いて、そう言う理由を聞いた。「根拠は?」

「多くの米国の若者が、ベトナムで死んでいる。ひきかえに、たくさんの戦争関連企業が、ベトナム戦争で大儲(もう)けしている」

 ジャーナリストの彼が、自らの故郷であるアラスカで、何者かに射殺されたのは、ベトナム戦争が終わる直前の、一九七五年の春だった。

 あの時の彼とのやりとりが、筆者にとって忘れがたい話となり、拙著『ウェルカム トゥ パールハーバー』に繋(つな)がった。

 アメリカ人なのにステーキが嫌いで、日本人と同じくライスカレーが好きだった彼は、筆者の生き方の指標となっている。=朝日新聞2019年12月14日掲載