変容していく認識
山森宙史(ひろし)『「コミックス」のメディア史 モノとしての戦後マンガとその行方』(青弓社)は、これまで「不問ないし単純化されてきた『出版メディア』としてのマンガの在り方」を問い直した研究である。そのために著者が注目するのが、研究における「マンガ雑誌中心主義」の影に隠れていた、「コミックス」(マンガ単行本)という存在だ。
本書では、「モノとしてのマンガ単行本」という視点から、書店に「コミックコーナー」ができていった歴史を追うなどして、メディアとしてのマンガに関する認識自体がどのように生まれ、変容していったのかということを明らかにしていく。さらには、マンガが「モノ」としてではなくデジタルデータとして消費されつつある現代において、将来的にどのようなメディアとして認識されることになるのか、ということも問うている。
19世紀の作家焦点
森田直子『「ストーリー漫画の父」テプフェール 笑いと物語を運ぶメディアの原点』(萌書房)は、コマを割って物語を語る形式としての「ストーリー漫画」を発明したと言えるスイスのロドルフ・テプフェール(1799~1846)を立体的に紹介する研究書。著者は、テプフェールの革新を、「(1)笑いを基調とする新しい物語メディアの創造、(2)身体言語(特に顔としぐさ)を利用した物語の伝達、(3)こうした新様式の物語を本として構想すること」の3点にあったとし、その視点から、テプフェールの作品や思想を具体的に分析していく。
戦後の日本マンガにその研究対象が偏っている現在のマンガ研究において、海外の、しかも19世紀に活躍した作家を取り上げたこれほど厚い研究は、稀有(けう)である。では、本研究が現在の研究トレンドとは無縁なのかと言えば、そうではない。本書では、テプフェールが、顔の造りと性格を結び付けようとした「観相学」の専門家でもあったことと、彼の作品における「表現ツールとしての身体言語」を結び付けて議論しているが、これなどは、マンガにおけるキャラクター表現を構造的に分析しようとする「マンガ表現論」という研究分野に直結する関心であると言える。
秘めた思想、大胆に
赤坂憲雄『ナウシカ考 風の谷の黙示録』(岩波書店)は、「わたしはマンガの研究者ではないし、マンガを語る作法やらなにやらにもまったくの無知である」と言う民俗学者・思想史研究者が、宮崎駿のマンガ版「風の谷のナウシカ」(1982~94)を縦横無尽に語った長編評論。著者が言うように、このマンガ作品は「宮崎駿という思想の可能性の、ある到達点が秘め隠されている」にもかかわらず、アニメ版ほど取り上げられてきたとは言えない。
本書では、「原点」としての「シュナの旅」(83年)といった宮崎のマンガ作品や、歴史学、物語論などの理論を補助線に、この作品を読み解くための魅力的な視点――国家にあらがうユートピアとしての部族社会、(宗教的)カリスマとしてのナウシカ、贖罪(しょくざい)と自己犠牲、虚無と無垢(むく)……――が次々と提示される。
赤坂はまた、この物語の語り方が多声的であること、初めから大きな構想があったわけではないことを評価しているが、それはまさに、恐る恐る、時に大胆に語る、この評論における語りの作法そのものだ。特に2000年代以降、マンガ研究は、アカデミズムの一部となることを目指すことで、より精緻(せいち)で明確な分析と文体が追求されることになったが、本書のような、大胆で、かつ論者の顔が見えるような「評論」は減ったように思う。マンガ作品を自由に語ることの楽しさを思い出させてくれるという意味で、価値ある一冊だ。
(伊藤遊・京都国際マンガミュージアム研究員)=朝日新聞2020年1月28日掲載